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玄徳道

道を語るブログです。

弭劫寿世要旨道11

2022-04-13 20:21:00 | 道院
坐とは、その修練に呼応し、必ず自然に「静定」する。

ゆえに、その人体の内なる「真神」を収め、その天性に合し、そして後、自ら「自如」(自適、如意)になることが出来る。

運用が「自如」であれば、心は自ら霊明であり、私欲に蔽(おお)われず、妄念に惑わされなければ、坐の彀(こう)に入ることが出来る。
(注 彀とは、「真息」が内に充ちること。真息が内に充ちれば、「炁」化して充ち周(めぐ)る。弓を引き絞って気力を充実している様子を「彀に入る」と言う。)

そこで「念」が一たび生じて来るのは、魔の仲立ちであり、「意」が一たび起こって来るのは、惑が引っ張るということを知らなければならない。

魔や惑に仲立ちされたり、引っ張られたりすると、坐というものが「平」となる事が出来ず、「定」になる事が出来ず、「適」になる事が出来ず、「如」となることも出来ない。

もし、坐って「適」であれば、すなわち、「恬定自如」の境地に到達するのであり、坐って不適であれば、木鶏のようになる。

この理を悟らなければ、その坐をどうして、純粋な坐と言うことができようか。

(注「適」とは自然を得ることである。「適」と言う字は「往く」という意味で、身体の中の気息が流通往来して阻み滞るところが無い。故に自然恬適の真味を得る事が出来る。)

(注 木鶏は列子の物語に出て来るが、ここでは、「木で作った鶏のようにぼんやりしている」の意。)

功が純粋で無ければ、障(さまたげ)はますます深くなり、惑は日に日に侵入してくる。

惑があれば自ら魔があり、魔が侵入する。

坐が不適であれば、どうして、魔や惑を自ら招かないで済むであろうか。

故に坐とは微妙な旨(ところ)に深く入るのである。

それによって自ら「静」、自ら「定」、となり、魔が自ら取り除かれ、惑が自ら刈り取られる。

その後に、道の真の境地は悟りを得ることが出来、坐の功候によって、「定純」(坐が定まって純粋になること)になる事が出来る。

坐というのは、浅いところから深いところに入り、至虚(虚の極地)の境地に達する事が出来、またその定は、至明(明の境地)に至ることが出来る。 

「初・進・完」の三歩(三つの段階)は坐候(坐の進境の程度)の基準にすることが出来る。

(注 「初・進・完」の三歩(三段階)とは、初が下丹田により、精を練り炁(氣)を化し、「任督倶通」すること。

(鬼雷述べる、先天坐では、わずか十六分の時間でも決まった時間に毎日坐れば、任脈と督脈が上顎に付けた舌により、合流し、任脈と督脈が合化し、水火の交わりと成る。)

進が中丹田により、炁(氣)を練り神を化し、「河車所通」すること。

(鬼雷述べる、任督が合化すれば、各丹田は覚醒し回光する。身体の小宇宙は自ずから覚醒する。)

完が上丹田より神を練り虚に還り、「出神定遊」すること。

(鬼雷述べる、永遠の悲しみの海、輪廻から解放される意であると考えます。)

つづく。
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