南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

「功名が辻」の時代のファッション感覚

2006-01-05 08:15:14 | 戦国時代
標題と直接関係はないのですが、こちらの
写真は商売繁盛で有名な豊川稲荷です。
正月に初詣に行ったとき撮影したのですが、
出来たのは700年前の室町時代のことだとか。
今川義元も、織田信長も、豊臣秀吉も信仰して
いたそうです。

さて、昨日の記事で、江戸東京博物館で開催されている
「山内一豊とその妻展」に行ってきたというお話
をしましたが、ここで何が一番印象的な展示だったかと言うと、
「腰巻き」の展示でした。

「腰巻き」というと普通は、昔の「下着」のことと思ってしまい
ますが(あるいは書籍の宣伝用の帯も「腰巻き」というみたいです
が)、この展示の「腰巻き」とは、下着でもなく、はたまた書籍の
帯でもありません、小袖の上に打ち掛けを着て帯を締め、打ち掛け
の両肩を脱いで着る着方を腰巻きと称するのです。これは言葉で
説明しようとすると何だかよくわからないので、図解の出ている
サイトをご紹介しましょう。こちらですここをクリック

このサイトに浅井長政婦人像というタイトルの絵が出ていますが、
これは悲劇の主人公のお市の方(淀殿の母親)です。これが腰巻き
というスタイルで、実際の人間がこの着方をしている写真が展示
してありました。私は、しばしこの展示をしばし見入ってしまい
ました。

全体の中でこの展示はそれほど注目を集めるようなものでは
なかったのですが、実はこれにはわけがあります。実はその前日、
「功名が辻」の三巻目を読んでいて、この腰巻きのスタイルが出て
きたのです。北の政所派と淀殿派の確執の中で、一豊の妻の千代を
自分の味方に引き入れたいと思っている淀殿が、千代に面会する姿
が、実はこの「腰巻き姿」なのです。原文を引用してみます。

「金銀糸の縫いとりをした唐織りの小袖の両肩を脱し、それを腰に
まとい、中着の純白地の小袖には、紅梅の大模様を金糸で縫いとり
している。あっと息をのむほどの派手な服装である」
千代がそれまで下げていた頭を少しあげて見えてきた淀殿の姿が
そのようであったと書いてあります。

この文章を読んだとき、これって具体的にどんな姿なんだろうと
気になって仕方がありませんでした。「小袖の両肩を脱し」って
どんな感じ?「それを腰にまとい」というのはどういうふうに?
考えれば考えるほど不思議になってしまったのです。というわけで、
こういう前提があってその展示を見たので、それが一層衝撃的で
あったのです。まさに目から鱗が落ちる感じでした。

「義経」の時代は、高貴な婦人たちは、きちっと十二単を着て
いました。それがいつからこのような「腰巻き」スタイルが出て
きたのか、非常に興味のあるところです。どなたかご存知の方は
教えて下さい。おそらく、何かのきっかけで、お洒落なスタイル
としてこの腰巻きスタイルが流行しだしたのですね。

これは当時としてはかなり過激なスタイルです。おそらく保守的な
人たちは、「ああ何てはしたない着方なのでしょう」と嘆いたに
違いありません。それが、何かのきっかけで、最先端でかっこいい
ファッションになったのだと思います。できればそのターニング
ポイントになったきっかけが知りたくてしかたありません。

織田信長もかなり過激な最先端のファッションリーダーであり、
豊臣秀吉もギンギラギンの超豪華ファッションの人だったので、
時代が「腰巻き」のようなちょっと着崩した感のあるスタイルを
生み出したのかもしれません。上半身がシンプルな白の小袖に対し
腰のところに巻いているのが派手目な打ち掛けというコントラスト、
そこに何かすごい潔さのようなものを感じてしまうのは私だけで
しょうか?見れば見るほどかっこいいような気がします。

「功名が辻」に出てくる千代は、当時の最先端のファッション
デザイナーです。自分でいくつもオリジナルデザインの小袖を作っ
ていて、かなりの人気を博します。北の政所も千代の小袖がほしく
てたまりませんでした。おそらく淀殿も千代を専属デザイナーと
してかかえたかったに違いありません。千代の小袖は、腰巻き
スタイルの路線とはちょっと違うのですが、当時の風雅を象徴して
います。

と、戦国時代の女性のファッションに着目してみたのですが、実は
男性のファッションもすごいです。江戸東京博物館の展示で見た
だけでハッとしたのですが、兎耳の兜とか、陣羽織とか、南蛮帽
とか一豊が使用したものが飾ってあったのですが、すごい最先端の
ファッションです。おそらく今の感覚でいうと、武人と芸能人の
アイドルを合わせたような輝きがあったんだなあと思います。

命がけで戦っている一方で、武具はかなり過激にお洒落をする。
この感覚は、ものすごい美学だったんでしょうね。今からでは
想像もできませんが、そんな時代の心意気が忍ばれます。

さて、明日は新年早々、インド出張です。
明日以降は、これまでと全然変わってインドっぽい雰囲気になる
と思います。よろしくお願いいたします

私と山内一豊との10の共通点

2005-12-28 21:45:37 | 戦国時代
こちらは今年引っ越しした新しい
会社の写真です。一応、広告代理店
なんで、ちょっと軽薄な感じです。
さて今日は、山内一豊のことを研究
していたら、私との共通点をいくつか発見
したので、それをここに発表してみたいと思います。
ちょっと無理矢理のところもありますが、結構類似点
の多さに自分でもびっくりしております。

共通点その1: 愛知県出身であること
山内一豊は尾張の国の生まれです。今で言えば愛知県。実は
私も愛知県生まれであります。田原市というところです。
織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、前田利家も、まつも、
おねも、佐々成政も、柴田勝家も、加藤清正も、池田輝政も、
山本勘助も、服部半蔵も、本田平八郎も、石川数正も、
み~んな愛知県出身なんですね。ついでに源頼朝も愛知県
出身と言われているので、愛知は大河ドラマの宝庫です。
「功名が辻」の中で、徳川家康率いる三河武士は「性格が
篤実、勇敢で、しかも統制に従順なこと比類がない」と書か
れています。トヨタ自動車が世界最強の会社である理由は、
この三河武士の伝統にあるのかもしれません。

共通点その2: 一国一城の主となったこと
一豊は近江長浜二万石から、遠州掛川五万石を経て、最終的
には土佐24万石の殿様になります。私は、一豊には及びま
せんが、いちおうシンガポールの国の現地法人の社長に
任じられ、慣れない会社の経営をしています。一豊と千代は
町工場の中小企業の社長とそれを助ける妻のようであり、
それを徐々に大きくしていった会社成長の物語として見る
こともできます。私の場合、この先がどの程度発展するか
よくわからないというところはありますが...

共通点その3: 各地を転々としたところ
一豊は尾張の国に生まれ、信長に従いますが、秀吉のところ
で出向社員として、近江の国(滋賀県)に駐在します。その
間、各地への出張(遠征)も数多く、その後、静岡の掛川に、
そして最後は土佐の高知へと移っていきます。さて私の場合、
愛知県に生まれ、一時横浜の大学に在籍したのですが、東京
への未練が捨てきれず、再受験、四谷の大学に通い、田舎で
教職につこうと思ったが不慮の留年、アルバイト
で今の会社に入り、各地を転戦、そしてシンガポールに来て、
会社の社長になるという右往左往とした人生です。また東京
時代も、茗荷谷→東池袋→東北沢→渋谷→千歳船橋→経堂→
南新宿→新宿一丁目→西葛西、というふうに転々としており
ました。

共通点その4: 貧しさを知っているところ
「功名が辻」を読むと、最初の頃の一豊はかなりの貧乏で
あったということがわかります。千代と結婚した後でも、
まな板を買うお金がないので、千代が枡をまな板代りに使う
というのが出てきます。貧しい時代の苦労が倹約の精神を
鍛えたのだと思います。私の家は、田舎で駄菓子屋をやって
いるのですが、最初は和菓子を製造したり、かき氷を売った
りしてたのですが、貧乏暇なしでした。テレビを買うお金が
なく、小学校の頃同級生が昨日のテレビ番組の話をするのに
ついていけず悲しい思いをしました。大学に入って、同級生
と食事に行ったりするときにも常に財布にあるお金は十分だ
ろうかと気にしていなければなりませんでした。だから、
基本的には私は「ドケチ」です。ギャンブルは嫌いですし、
余計なものへの出費はできるだけ抑えようという気持ちはあり
ます。トヨタの社風に通じる三河の伝統かもしれませんが。

共通点その5: 真面目であるということ
一豊は基本的には真面目な人間でした。戦では功名を上げる
ことに一生懸命になり、命がけで闘いました。秀吉のように
浮気をしたりすることなく、千代一筋に行きました。私は
はたしてどうかと言われると、自分でいうのも何ですが、
真面目なほうではないかと思います。仕事に関しては、どんな
小さな仕事でも手抜きすることは嫌いですし、また耐震強度
偽装事件のようにごまかすことは嫌いです。自分の利益の為に
他人を陥れたり、騙したりすることも嫌いです。どんなに
儲かっても、うちの会社は、サラ金や、タバコや、出会い系の
広告の仕事はしない方針です。

共通点その6: 出世の遅さ
一豊はかなり出世が襲いほうでした。年下の石田三成なんかが
どんどん出世して一豊をはるかに追い越してしまったとき、
一豊は悲しい気持ちになります。千代も一豊の出世の遅さに
多少いらつくところはあるのですが、最終的には、成功に辿り
つきます。三成などは、出世も速かったのですが、関ヶ原では
悲しい最後を遂げました。他の戦国武将も幸せな人生だったと
思って死ねなかったのが大部分です。そういうのを考えると
一豊は真の勝ち組です。私も、下積みが長く、50手前にして
やっと小さな会社の社長となれたのですが、今後どう発展する
かはまた別の話です。

共通点その7: よき妻にめぐりあえたこと
一豊にとって、千代との結婚は正解でした。ともに助け合って
後世のお手本となるような夫婦関係を築きました。私たちの
場合は、まだ始まったばかりなのですが、そのようになれたら
いいなと思っております。一豊夫婦はいろんな意味でお手本です。

共通点その8: 夫婦の年齢差が一回りであること
一豊と千代の年齢差は一回りでした。どちらもヘビ年です。私と
妻の下町娘とは正確に言えば13なのですが、
何ヶ月かは12才の差の時期があります。これは単に偶然ですが、
一豊と千代の年齢差とほぼ同じというのが何か嬉しいです。

共通点その9: 遠距離結婚であること
戦に明け暮れる一豊は、千代と結婚しても別居の時期がたくさん
ありました。いわゆる単身赴任です。また、関ヶ原前夜も、千代は
人質状態になっていて別居をしていました。しかしながら、二人の
繋がりは距離の隔たりに負けることはありませんでした。私たちは
今月ハワイで結婚したのですが、今は東京とシンガポールに離れ
ばなれになっています。一豊と千代のように距離に打ち勝って
強く生きたいと思います。

共通点その10: 運がよいということ
一豊は、へたをすると死んでいたかもしれない戦場で、運よく命を
拾って帰ってきます。運に恵まれているのです。私の場合、彼ほど
命がけの場面というのはなかったのですが、いくつかの幸運のつみ
重ねで、今日まで無事に生きてきて、今ここにいます。そのことに
はいくら感謝しても、感謝しすぎることはないという気もします。
いま今日ここでこんなブログを書いていられるということは、最高
に運がいいからなんじゃないかと思います。まあ、うちの嫁(下町
)に出会えたということが一番の幸運だったのかも
しれませんけど

ということで、無理矢理に10個の共通点を並べてみました。
さぞうんざりされた方も多いと思います。どうも失礼いたしました。
まあ、そんなこんなでいろいろあった2005年も暮れていきます。

みなさんにとって2005年はどんな年だったでしょうか?
2006年が皆様にとりましてもよい年となりますことをお祈りして
おります。このブログは年内まだまだ更新は続く(と思いますが)、
また来年もよろしくお願いいたします。
それでは、皆様、よいお年を。

来年が馬年というわけではないけれど

2005-12-27 02:30:26 | 戦国時代
来年の大河ドラマは「功名が辻」、
山内一豊とその妻(千代)のお話です。
「内助の功」として有名なのですが、
最も有名なのは馬を買うエピソード。

一豊はある日、それまで見た事もないような
名馬に遭遇します。それが欲しくたまらないのですが、
貧しい一豊にはその馬を買うだけのお金がありません。
妻の千代に相談します。千代は、さっと、鏡の底に隠してあった
お金を一豊の前に差し出します。「夫の一大事の時以外には
決して使ってはならない」と親が託してくれていた持参金です。

一豊は、名馬を手に入れることで、親方の信長の注目を勝ち得ます。
信長軍団のブランドイメージ向上に大いに貢献したということで、
加増(昇給)となります。どんなに貧しくとも、決して手をつける
ことのなかった持参金を、一世一代のチャンスに思い切って使う、
それは見事なお金の使い方です。

つい先日、「山内一豊の妻の会計学」という本(西澤健次著、
グラフ社刊、詳細はこちら)を買ってしまったのですが、
このお金は、会計学的に言うとどういう科目になるのかという話が
出ていました。一応、「引き当て金」ということになり、馬の購入
は「広告宣伝費」になるという話が出ていました。「交通費」とか
ではありません。今の時代だと、リースにしたくなると思いますが、
戦国の時代にはそういうのはありません。こういう夫の一世一代の
チャンスのために引当金を夫に黙って準備していた千代の功績です。

貧しさに負けて、このお金を日常の経費の補填として使ってしまって
いたら、いざというときに活かせませんでした。そのタイミングを
じっと待ち、好機と思ったら躊躇せずにパッとそれを使う。それは
見事です。普通の人なら、「夫が馬が欲しいとか言っているけど、
そんな馬みたいなものに大切なお金を使っていいのだろうか?私
だって奇麗な着物がほしいし、夫のわがままにそこまでつきあって
られない」と考えてしまうかもしれません。千代は、チャンスの到来
を冷静に読み取っていました。その読みの正しさは結果が証明して
くれました。

この馬のおかげで、それまでいまいちパッとしなかった一豊君が急に
皆の注目を浴び、出世街道を歩み始めるきっかけとなるのです。
というわけで、来年はうま年ではないのですが、大河ドラマの影響で
馬が話題となるのではないかという予感がします。

ところで、今回のブログに掲載したこの馬の写真なのですが、これは
実は、某カメラブランドの宣伝広告のためにうちの会社で制作した
クリエイティブに登場した馬です。言い忘れましたが、うちの会社は
広告代理店で、シンガポールおよびアジア/インド地区での広告の
企画ならびに媒体扱いをしております。二年ちょい前に、競合コンペ
があったのですが、当社はこの馬をメインのキャラクターにした案で
勝ちました。

商品はデジタルSLRなのですが、そのレスポンスの速さ、機動力など
を持ちながら、写真機としての伝統を引き継いでいる、という意味で
サラブレッドを使ったわけです。馬を広告宣伝で使うことは、中国の
文化では、「他社の追随を許さない」というメッセージになるので
非常によいと、シンガポール人のマネージャーは言っていました。

このキャンペーンはすでに終了していますが、この馬の広告は結構
露出したので、覚えている人はかなりいました。この馬を使って、
テレビコマーシャルと、新聞/雑誌広告、交通広告などで展開しまし
たが、この馬は実は日本の千葉の馬です。美しいサラブレッドという
ことで、あっちこっちいろいろ探してもらい、たまたま千葉にいた馬
を起用したのでした。

というわけで、うちの会社も一頭の馬に助けられました。この時は
一気に媒体扱いが増えました。しかし、一豊と違うのは、それから
トントン拍子に会社が発展とはいかなかったことです。しかし、
この馬のおかげで、しばらくは売り上げが保てたので、馬様に感謝
です。

私は歴史も好きですが、シェイクスピアも好きです。シェイクスピア
の中で、馬が印象的なお話は、「リチャード三世」です。
まあどの芝居も馬は出てくるのですが、悪役の主人公リチャード三世
が、味方に次々と裏切られ、敵に包囲されて最後を迎えるときに言う
セリフが、「馬をくれ~!馬を!この王国をくれてやるから、馬を
くれ~!」と叫びながら、孤独な最後を迎えるのです。

私は大学時代、シェイクスピアのお芝居をやっておりました。舞台に
も出たことがありますが、「十二夜」や、「夏の夜の夢」、「ロミオ
とジュリエット」、「ベローナの二紳士」などを上演しました。
「リチャード三世」は自分では関わりませんでしたが、セミプロの
劇団がそれを演じるのを見て、かっこいいなあと思った記憶があります。

その劇団でリチャード三世を演じたのは、大学の劇団の先輩で、劇団
昴の所属俳優になっていた人ですが、その後どうなったかよくわかり
ません。洋画の吹き替えとかで名前が出ていましたが。

リチャード三世は、裏切りや、殺人、陰謀に満ちた暗いお芝居です。
また主人公自身もせむしで、びっこで、全然ハンサムでもありません。
そういう特殊な人物が主人公となっているめずらしい話です。
自らの陰謀で、敵を殺していき、権力の座に到達するのですが、最後
は、権力の座から引きずり降ろされ、惨めな最後を迎えるのです。
その最後に叫ぶのが「馬をくれ~!」という言葉で、もちろん誰も
馬をあげたりはしないのですが、そう叫びながら死んでいきます。
リチャード君は、その馬でどこかに逃げて行きたかったのでしょうか。
悪事を尽くしてのし上がっていった彼は、いずれにしてもろくな最後
にはならなかったのでしょうが。

馬といえば、今月ハワイに行ったとき、宿泊したワイキキのモアナ
サーフライダーのロビーに馬の置物があったのを思い出しました。
玄関を入ってすぐのソファーの後ろのサイドテーブルの上に置いて
ある30センチくらいの鉄製の置物です。私の妻(=下町娘
が、私がソファーに座っていることを撮影してくれたのですが、その
後ろにその置物の馬が奇麗に写っていました。というか、どっちか
というと、私よりも後ろの馬のほうにピントがあってるぞー

というわけで、このところ何かと馬に縁のある私たちでした。