定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

天山を越え日本へ 中央アジアに抑留された日本人

2017-11-16 18:37:38 | 中央アジアのシベリア抑留
『天山を越えて日本へ  キルギスに抑留された日本人』
著/長澤法隆

この原稿は、月刊誌「望星」2008年12月号、2009年1月号に発表されたものです。一部を訂正しています。
電話番号は、042-573-7675にかわっています。問い合わせはこちらへお願いします。
キルギスへ抑留された方を知っている方、家族や親族の中にキルギスや中央アジアに抑留された方をご存知の方は、連絡をください。
メールnagasawa_horyu▲□yahoo.co.jp(▲□を@にかえてください)でも受け付けています。

キルギス抑留 六〇年目の真実
見えてきた抑留者たちの「生きた証」



 昨年(2007年)、60年の沈黙を破って、元日本兵2名が抑留体験を語り始めた。シベリアではない、中央アジアにあるキルギス共和国での抑留体験である。現地では、「子供の頃に日本兵を見た」「日本人と一緒に働いた」といった証言が数多く聞かれるが、なぜか抑留された当の日本人の証言はなかった。戦後60年を過ぎて、ようやく見えてきた「歴史の空白」を埋める糸口‥‥現地調査を続けるフリーライターの長澤法隆がレポートする。

出発前の電話

「もしもし、世田谷のタケウチといいますが‥‥、キルギスのタムガ村で抑留されていた者です。タムガ村で抑留された元日本兵を探している長澤さんですか?」
2007年9月10日18時過ぎ。キルギスへの出発を翌日に控え、旅行会社との最終的な打ち合わせを終えたわたしが、夕闇の迫る新宿通りに出たところへ、その電話はかかってきた。
「明日の出発ですね。一ヶ月、間違えていました。10月の出発だと思ったものですから。出発前で忙しいのにすみませんね。じつはタムガでの体験は思い出したくないことばかりで‥‥。食べるものはないし、労働はきついし、ノルマもある。いつまで捕虜生活が続くのか、いつ日本へ帰れるのかわからない。そんな状態が2年間も続きました‥‥」
 車の騒音の中、携帯電話で聞き取る声の調子は暗く、わたしははやる心を抑えながら質問した。
「ひとつだけ教えてください。タムガ村に抑留された元日本兵は、何人でしたか?」
「タムガに抑留されたのは125名です。一人も亡くなっていません。全員が復員しました」
 電話をくれたのは、武内榮さん(当時86歳)という人だった。
 わたしが代表を務めている市民団体「シルクロード雑学大学」では、シルクロードを自転車で旅行しながら日本との交流の歴史にも目を向けて、実際に国際交流にも取り組んでいる。その一環としてキルギスに抑留された体験者の証言を求めていることを読売新聞(2007年9月1日付朝刊、都内版)の記事で知り、連絡してくれたのだ。
 このときは、わたしの出発が近いことから、帰国後に改めて詳しく証言を聞くことを約束して、電話を切ることになった。



キルギスの人々の証言

 キルギス人の間に、元日本兵が抑留されていたことを伝える証言のあることを知ったのは、2005年の秋だった。翌年の夏、仲間と一緒にキルギスを旅行する。そのために、キルギスの新しい情報を探しているときのことである。
 2000年以降、日本で発行された書籍では、田中哲二著『キルギス大統領顧問日記』(中公新書)と、三井勝雄著『天山の小さな国・キルギス』(東洋書店)の2冊があった。この2冊は、ともにイシククル湖の南岸にあるタムガ村に、かつて抑留された元日本兵のいたことを伝えるキルギス人による証言のあることを記録している。そのうちの三井勝雄氏は、日本国内の短期大学で教鞭をとり、定年後にキルギスの国立ビシケク人文大学で日本語教師として9年間を過ごした人だ。その間に、大学で日本語を学ぶ教え子から情報を得て、キルギスの各地(8つの地域)で現地の人達をインタビューし、元日本兵に関する証言を聞き出していた。
 また著書の中では「キルギス人が語り継ぐ『日本人兵士』のこと」と題する一章を設けて、証言したキルギス人の名前、生年、元日本人兵士と接触した当時の所属や役割などを明記し、証言の内容も簡潔に紹介している。
 しかも、その中のタムガ村での証言を紹介した箇所では、抑留された日本人が125名であり、1946年にウズベキスタンのタシケントから送られてきたこと、1948年5月にタムガ村から引き上げたこと、逃亡者が1名いたことなどが、じつに具体的に記録されている。著者が現地に何度も足を運んで、じっくりと取材した著作であることが読み取れる内容となっていた。

三井氏の調査の後を追って

2006年8月、わたしは仲間と一緒にイシククル湖を巡り、タムガ村を訪れた。
マルシアさんという75歳の女性に会いたいと願っていた。そして、三井氏の著作を手渡しながら、タムガ村にはほかにも証言者がいないかどうか、聞きたかった。三井氏の著書は、2002年に発行されていたが、マルシアさんなどキルギスで証言をしてくれた人たちに渡されていないと、三井氏に聞いていたのだった。
タムガ村はイシククル湖を見下ろす丘の上にあった。厳しい残暑の中、村のどこへ行っても、色付いたアンズとリンゴの実が実っている様子をることができた。豊かな土地であることが理解できた。
ゲストハウスに荷物を降ろして、最初に村の一番奥にあるサナトリウムを訪ねた。そこには、日本人が建てたと伝えられている泥治療の診療所があると聞いていたからだ。診療所は、一抱えもあるようなポプラの大木が強い日差しを遮っている並木道を、右に左にと通り抜けた奥にあった。並木の下は、残暑を感じさせないほどに涼しかった。緑に覆われたサナトリウムの中、三階建てほどの高さのある白亜の建物は強い光の中で輪郭をくっきりと表していた。
中に入ってみると、中央にある待合室のような部分だけでも五〇メートル・プールほどの広さがあった。吹き抜けとなっている高い天井も、室内を涼しくしているのであろうか。外の残暑が嘘のようだった。その快適さと、抑留された元日本兵が手作業で建てたとされる建物の大きさに、あらためて驚くばかりであった。
サナトリウムを出ると、三井勝雄氏の著作を手に村の中を歩いた。マルシアさんのお宅をめざした。運よく、アンズやクルミの木が影を落とす門の脇で話を伺うことができた。小さな村なのだが、ゲストハウスの女主人に本の中に写っているマルシアさんの写真を見せたところ、直ぐ近くにある自宅を教えてくれたのだ。
捕虜の元日本兵たちは、マルシアさんが小学校六年生の時にタムガにやってきたという。歌や踊りで交流したことを覚えていると証言してくれた。60年以上前のできごとを語るとき、彼女の目は遠くの風景を見ているようだった。子供の頃に目にした元日本兵。そのおぼろげな光景が、目に浮かんでいたのだろうか。
マルシアさんによれば、タムガ村には他にも元日本兵に関して証言できる人はいる。けれども、その人数は年々減っているとのことだ。キルギスに抑留された元日本への記録を残すのも、時間との追いかけっこだと実感したのだった。急がなければならない。
それでも、タムガ村にはまだ日本人捕虜と接した人が生きている。次回の訪問では、元日本兵の様子を知っている人に出会えるかも知れない。そんな希望を抱いて、このときはみじかい滞在を終えた。

日本兵に関する資料室の開設へ

 武内さんから連絡を頂いていた直後の2007年秋。タムガ村のサナトリウムを再訪すると、20年ほど勤めているという看護師のナターリア・タラシェンコさん(当時51歳)が、施設を案内してくれた。
当時、病院として建設された施設は、いまでは泥治療の診療所として利用されていること、サナトリウムは当初、ソ連の国防省の所有で、利用できるのは軍人だけだった。だが、ソ連の崩壊後はキルギス共和国の国防省へと所有が移ったこと。今では誰でも利用できる施設だということが、ナターリアさんの説明を聞いて確認できた。
日本を出発する直前に、この診療所を建てた元日本兵から電話があったことをナターリアさんに伝えた。
「日本人はとても働き者だったと、両親から聞いています。60年たっても頑丈で、立派な診療所を建ててくれた日本人に感謝しています。スパシーバー(ロシア語で「ありがとう」の意味)その人たちにも伝えてください」
 思いがけなかったのだが、抑留者だった元日本兵への感謝の言葉が返ってきた。
 ナターリアさんは、タムガ村で生まれ育っている。両親や村人から、村に来た日本人の村への貢献を、語り伝えられていたのだという。そのナターリアさんは、さらにこんな言葉を続けてわたしを驚かせたのだった。
「今、この診療所では、ここを日本人が建てたことを伝える資料室をつくろうと準備をしています。元日本兵の写真や彼らが来ていた服、食器などを展示したいので、収集に協力してください」
 ナターリアさんによれば、建設工事などの仕事で日本人捕虜と接した体験を持つ親の世代から子供である彼女たちの世代へは、元日本兵の意欲的な働きぶりはよく言い伝えられてるいという。しかし、孫の世代へは伝わらないケースが増えているため、日本人のまじめな働きぶりや礼儀正しさを伝えたいと願っており、資料室を準備しているというのである。
 キルギスの人たち捕虜であった元日本兵の生活態度や働く姿勢を評価し、今も好意的に受け止めていること、日本人が建てた建物への信頼と感謝の気持ちを忘れていないことを、捕虜として過ごした武内さんは、どう理解しているだろうか‥‥。
 ナターリアさんの言葉と思いを受け止め、キルギスの人達が抑留者の労働の正価に感謝していることを武内さんに伝えたい。ロシア人を「ロスケ」といい、抑留中の労働の厳しさや空腹を訴えていた武内さんに、ナターリアさんの元日本兵への感謝の思いが伝わるだろうか。一抹の危惧を胸に、わたしはひとまず日本へ引き上げることになった。



語り始めたキルギス抑留者

 2007年9月19日にキルギスから戻ったわたしは、すぐに武内さんに電話した。一週間ほどの間に、ご自宅でお会いすることができた。
「暑い中をご苦労様でしたね」
 室内に通されてすぐに、武内さんはサラリーマンが使うような黒い革の鞄から、一枚の新聞記事を取り出した。
新聞記事には、作家の井上靖氏がキルギスのビシケクまで行ったけれど、イシククル湖へいくことをソビエト政府から許可されなかったと書かれていた。イシククル湖は、玄奘三蔵がインドへ仏典を求めて旅した時に中国から天山山脈を越えて、この湖を通ったとされている。玄奘三蔵は、冬でも凍らないことから「熱海」と表現していたのだった。
「井上さんのお宅はすぐ近所なんですよ。散歩の途中で会い、挨拶も交わしていました。そんなにイシククル湖に関心があると知っていれば、抑留中の話をしてあげられたのですがね」
 玄奘三蔵の足跡を追ってイシククル湖へ行きたくてしょうがなかったかった井上靖さん。イシククル湖の湖畔にあるタムガに抑留されて、2年間も帰国を夢見ていた武内さん。そんな話から、武内さんは穏やかにキルギスでの抑留体験を語り始めた。
武内さんの穏やかな語り口とは裏腹に、抑留生活は空腹とノルマを課した労働の連続だったこと。夏には肩の上に直接石を乗せて血まみれになって、石を積む作業にあたったこと。冬には空中に渡した水路が凍るのを防ぐ作業で、高所から落ちて大怪我をして、3か月も床に伏したことなど。抑留中の話は、抑留生活への恨み節で貫かれていた。
「いつになったら日本へ帰られるのか、まったくわからないんです。『トウキョウ ダモイ』(東京へ帰ることができる)の言葉に何度も騙されました」
 捕虜として過ごした二年間への屈辱の記憶を洗い流すには、60年の歳月はまだ短いのだろうか。高く石を積む作業で、石を背中に載せて足場を上る厳しさを語る場面では、立ち
あがって身振り手振りも交えて、生々しく説明してくれた。
その一方で、毎日続く空腹については、聞いていて面白い話もあった。
「労働や生活では、10人で一つのグループを構成していて、このメンバーで分配されたパンを分け合います。だけど、配給されたパンの分量では満腹感を得られないんです。そこで話し合って、10日に1回、順番にパンを腹いっぱい食べられる日があるように来ふうしました」
 実際に体験したものでしか語れない創意工夫なのであろうが、思わずお互いに笑みがこぼれた。傍らでじっと聞いていた奥さんも、ここで口を挟んだ。
「そんな話、初めて聞くわ」
 という顔は笑っていた。
「タムガでの建設作業は、本当に苦しい毎日だったんだよ。思い出したくもなかった‥‥」
 確かに、捕虜としての抑留生活は、思い出したくもない日々の連続だったのだろう。
 だが、これまでのように当事者が誰ひとりとして語らぬままでいるならば、終戦後、元日本兵はキルギスには抑留されなかったことになりかねない。一方で現地の証言が得られるようになった今こそ、そして苦しいことも自分たちが生きてきた証拠なのだ。事実を明らかにするためにも、思い出したくもない抑留体験を証言しようと決めたのだった。
 わたしは話題を変えて、タムガ村での労働以外にどのような場所で、どのような作業に関わったのか聞くことにした。
「建設材料の石灰がなくなれば、石灰岩を切り出して、焼いて消石灰を作ります。これは村の南にある渓谷で行いました。トラックに乗って出かけて、何日か泊まりがけで作業をするんです。木材が足りなくなれば、渓谷の入口にある村の製材所へ行って手伝いました。タムガ村の東にあるコルホーズへ、ジャガイモ掘りに出かけたこともあります」
 武内さんの証言からは、タムガ村の近くに有る村や山林の地名も出てきた。作業の内容が変わるたびに、武内さんは山の中へ出かけ、西や東にある村やコルホーズへと移動して作業をしていたこともわかった。
 そのなかにはカジサイという村へ石積みの作業のために出かけた話もあった。これは三井氏がキルギスの人から聞いて著書に収めた証言と、場所も作業内容もぴったり一致していた。しかし、武内さんが石灰を作りに行ったという場所のように、何十キロメートルも距離のある渓谷のどこにあるのか、具体的な場所を特定するのが難しいケースもあった。
 元日本兵がキルギスでも抑留されていたことは、タムガ村とその周辺の村では歴史的な出来事として知られている。それが今度は、日本でも体験を語る人が現れて、知られざる歴史の細部が明らかになろうとしている。彼らは抑留中の二年間、具体的には村のどこにいて、どんな家に住み、誰と接して、何月にはどこで、どんな仕事に従事して、どんなことを感じていたのか‥‥。空白となっていた歴史の空白を埋めるためには、今後、タムガに抑留された元日本兵の、ほかのメンバーからも証言を得る必要があるだろう。また、実際に現場に立って、それらの証言と地形や位置関係、距離などを確かめたいと思った。
 武内さんの話を聞きながら、わたしは、その遠い道のりを思っていた。



なぜ記録を残せなかったのか

 厳しくも苦しい体験ゆえに、それを誰にも話さなかった一方で、武内さんは一緒に抑留された仲間の何人かとは連絡を取り合っていた。キルギスでの抑留体験を記録して、それを出版する計画も、実は帰国後すぐにはあったのだという。
「戦後の、もののない時代です。記録を残すために本を出そうと思っても、紙がないんですよ。それでもなんとか苦労して、手配することができたのですが‥‥」
多くの仲間から原稿を集めようと、武内さんは手紙を書き、電話をして、記録作りに孤軍奮闘した。ところが、
「手紙を何回送ってもナシのつぶて。転居先を探して電話をしてみれば『タムガ村なんて行ったことはない』、ガチャン、と電話を切られたこともあります。とうとう、原稿が集まらないので、記録を残すことができませんでした」
 抑留された事実すら思い出したくないという仲間の気持ち。彼らの気持ちも武内さんは理解できた。だから、出版を諦めたのだ。だが、武内さんの気持ちのどこかでは、その後もキルギス抑留の記録を残したいという気持ちが続いていたのであろう。仲間たちから届いた手紙を丁寧に保存し、キルギスに関する新聞記事をスクラップしているのは、そんな気持ちの表れだったのではないか。
 忘れたくても、忘れられない抑留体験。時間の流れとともに、忘れたくない気持ちのようが大きくなって、武内さんはわたしに電話をくれたのかもしれない。

「村人たちの感謝」を知って

 この日の訪問の最後の話題に、わたしは、タムガでサナトリウムの看護師のナターリアさんから預かった、例の伝言を持ち出した。病院建設を感謝している彼女の言葉をそのまま伝え、
「タムガの人たちは、武内さんたちの生活態度や働きぶりを高く評価して、子供から孫へと語り継ごうとしています。60年前に日本人が流した汗もその苦労も、タムガの人たちは忘れていませんよ。一緒に働いたというトラック・ドライバーは、当時の元日本兵が生きて元気でいるのなら、タムガへ来て、今も立派に建っている60年後の建物や施設や村の姿を見て欲しいと言っていました」
 と付け加えると、武内さんから返ってきたのは、感謝の言葉だった。
「ありがとう。‥‥そうですか。羽があったら飛んでいってタムガの人たちと話をしたいなあ」
 タムガの人たちにこそ、武内さんのこの言葉を聞いてほしいとわたしは思った。
 60年の歳月が流れてもソ連の捕虜となって遠く離れた中央アジアの寒村にまで連れ去られ、抑留生活を強いられた身にすれば、ソ連という国や抑留政策を進めたスターリンへの恨みつらみがなくなることはないだろう。
 自由を奪われ、苦役を強いられ、望郷の思いさえもてあそばれた二年間。その時計の針は戻るわけではない。記憶も消えるわけではない。
 だが事実と向き合うことを避けていると、歴史の羅針盤も狂ってしまうことがある。証言者たちとともに、元日本兵のキルギス抑留という歴史の事実に、いましばらく向き合おうと決めた。



「カタパン」、時空を結んだニックネーム

 二〇〇八年七月キルギス抑留を体験した元日本兵が、六〇年ぶりに収容所(ラーゲル)を再訪した。トラック運転手として一緒に働いたというキルギス人が、「カタパン」と言うと二人は急に親しそうに、ロシア語で話し始めた。

三種類の「抑留者名簿」

 東京駅から新潟駅雪の新幹線に乗って、ぼんやりと車窓を流れる風景を見ていた。青空の下を走っていた列車は、一時間ほどで濃霧の中に入った。トンネルを抜けて新潟平野に入ると灰色の雲が刈り取りを終えた水田を覆っている。中央アジアにあるキルギス共和国と、海に囲まれた日本。乾燥と湿潤。自然環境の大きな違いに思いを馳せた。2007年11月27日のことだった。
 武内榮さん(当時86歳)から、キルギスのタムガという小さな村で二年間を過ごした抑留生活の様子、タムガ村で抑留された元日本兵のことを聞いたのは9月のこと。そのときタムガ村で抑留された元日本兵の名簿を預かった。なぜか三種類の名簿があった。
 1948年7月11日、朝風号で舞鶴港へ帰還。7月13日にタムガ村で抑留された仲間たちだけで送別会を開いた。翌14日に125名はそれぞれの故郷を目指して舞鶴駅から日本の各地へ散った。別れる間際に仲間たちに連絡先を書いてもらってリストを作った人が、少なくとも3人いたのだろう。
 だが、歳月とともに連絡が途絶え、名簿から抜け落ちる人もいた。そしてハガキや手紙でやり取りを重ねる中で、武内さんの手元へ三種類の名簿が届いていたようだ。

現れた二人目の証言者

「前略 突然のお便り、さぞ驚かれたことでせう」
 という掻き出しのハガキを見せてもらった。消印は昭和二三年、料金は一円五〇銭。文面は、誰々は結婚、誰々は独身、改名など、郵便物で知った情報をさらに伝達して、仲間たちの消息を伝えていた。
 武内さんは預かった三つの名簿をすりあわせたが、残された連絡先は99人分であった。また、北海道から鹿児島まで、37都道府県へ仲間たちは帰っていった事がわかった。
 2007年に、わたしがキルギスのタムガ村を訪れたとき、60年前にトラック運転手として元日本兵と働いたというミエルコフ・イワノビッチさん(当時80歳)は、
「東京や沖縄出身だという日本兵がいた」
 と証言していた。名簿には、東京都内を連絡先とするものが4人、記録されている。だが、沖縄県内を連絡先とする人の記録はなかった。60年の歳月が塗り替えたのは、記憶だったのだろうか、それとも記録だったのだろうか。
 わたしはこの名簿を手に、武内さんと手紙をやり取りしている宮野泰さん(当時82歳)を訪ねるために、新潟行きの新幹線に乗っていたのだった。
 新潟駅から各駅停車に揺られて約1時間。新発田駅に到着した。駅前にある竹内旅館で、宮野さんと落ち合う約束をしていたのだ。
「遠いところをよく来てくれました。ご苦労様です」
 すでに冬の到来を告げるような寒風の中、迎えに出てくれた宮野さんは、わたしが思っていたよりも小柄な人物だった。
「ロシア語通訳としての活躍してくれていました。石積み労働のノルマ、食糧事情や居住状況の改善のためにソ連の兵隊と交渉してよくやってくれました。二年間の収容所生活で一人の犠牲者も出さずに125名全員が帰国できたのは、宮野さんの功績も大きいと思います」
と武内さんは話していた。
 また、わたしが訪問して話を聞きたいと電話をしたとき、宮野さんからは「稲刈りが終わる頃にして欲しい」と伝えられていた。九月下旬のことだった。そんなことから、トラクターを乗り回す大柄で逞しい農夫の姿を想像していたのである。

ロシア語通訳の初仕事

「通訳といっても、大学で第二外国語として、一年半勉強しただけでしたからね」
 と控えめな口調で語り始めた宮野さんは、身長158センチ、体重48キロだという。大柄の農夫のイメージは、見事に崩れ去った。
「タムガに到着したとき、村長が短い演説をしました。この時の通訳が初めての仕事でした。ところが、さっぱりわからないんですよ。ソ連の監視兵が囲んでいましたしね。絶体絶命という言葉が浮かびました。『隊長殿、ほとんどわからないのですが』と小さな声で隊長の田村さんに伝えると、『誰もわからん。適当に言っておけ』と返ってきました。太っ腹な隊長の言葉に励まされました。冷や汗だらだらで、なんとか儀式を乗り切ることができました」
 125名の中で隊長を務めた田村美義中尉(岡山県出身)、事務方のリーダーを務めた村上一雄曹長(三重県出身)、通訳の宮野さん、そして炊事係の三人で本部を構成していた。宮野さんは日本側の本部とソ連側の本部の間に入って、毎朝の仕事の割り振り、食料の調達と分配など、双方の間で連絡や要望を伝える役割を果たしていた。
 タムガ村は、キルギス共和国の東にあるイシククル湖に面している。1930年代に、ソ連軍の高級将校の怪我や病気治療のための診療所、保健施設を備えたサナトリウムが建設されて、村の歴史は始まった。当初は800名ほどの人口で、現在でも1000人を数える程度の小さな集落だ。以前は、サナトリウムに関係する仕事に就いている村人が多かったが、今ではヨーロッパからの観光客が、南部にある山々でハイキングや登山を楽しむ際の宿泊地として利用されている。ゲストハウスや民宿施設が増えて、観光関連の仕事に就いている人も増えている。

日本兵が造ったライオンの像

 わたしは、2007年にタムガ村を訪れた時に撮影した村の様子、日本兵が建てたと伝えられている建物の正面からの写真をとりだした。
「ああ、今も使われているんですか」
 建物の周辺を回りながらさまざまな角度から撮った写真を並べた。そして最後に、ライオンの像の写真を見てもらった。
「このライオンの像は、日本兵が造ったと村人は伝えているとのことです。三井さんという方が著書で書いています」
 日本兵が建てたと伝えられている建物の一角に、白い壁の間からライオンが首をだしているような形をした、金色の胸像があるのだ。
「山下さんは絵が上手な方でした。『お前は仕事に行かなくてもいい』なんて、ソ連の兵隊に呼び止められていました。後で聞いてみると、ソ連兵に春画を描くように求められたとのことでした」
 その後、山下さんは、労働現場に行かないことが多くなったと宮野さんは話しを続けた。しかし、
「ライオンの像のことは覚えていませんね。記憶にないです。建物ができると、わたしたちはタムガ村を離れたんです。一刻も早く日本に帰りたかったんです」
 ライオンの像は覚えていない。これは武内さんも同じだった。
 タムガ村とそこに抑留された元日本兵を結ぶものは、他にないのだろうか。宮野さんは一通の手紙を取り出した。
「これは、村上さんから届いた手紙です。炊事を担当していた松田六郎さんから村上さんに届いた手紙のコピーが同封されていました。描いている建物の絵と写真、本当によく似ていますね」
 長崎に住む松田六郎さんという人物が、抑留当時、事務方のリーダーを務めた三重県津市の村上一雄さんに手紙を送ったのはいつだったのか不明だが、
「この絵は昭和二三年(一九四八年)七月、復員して帰った時に描いたものをコピーしたものです。」
「思い出してください。この絵はタムガで建築した建物です」
「山の上には雪がいつもありました」
 とメモが、手紙に添えられていた。手紙のコピーを見て、長崎の松田さんもキルギス抑留者に間違いないと、わたしは思った。日本人が建てたと伝えられている建物と手紙に描かれている絵が、あまりにも似ているのである。

日露戦争の捕虜に悩まされて

「炊事係は大変だったと思います。食料の問題は、質と量でした。与えられたのはパンと
燕麦でした。パンはソ連から塊で受け取り、日本側で切ってひとりひとりに配分します。燕麦は雑炊にして配分します。雑炊といっても底の方に薄らと燕麦が沈んでいるだけ。重湯みたいでした。それでもみんなが『底のほうの固形物をすくってほしい』というわけですよ。まあ、固形物が当たってもすぐに腹の虫はなくのですが」
 宮野さんの口をついて出る話も、食糧不足による苦労談が多い。だが、わたしが注目したのは、宮野さんが通訳として、抑留者が労働を強いられたいくつもの現場に立ち会っている点であった。さらに、
「カントーラ(事務室)の掃除に来ていたのは、ゾーヤという名前の女の子でした。年齢を聞くと、私の妹と同い年でした。おじいさんのマルティーノさんは、日露戦争の時に捕虜となって日本の丸亀で数ヶ月過ごしたと言っていました。そして、『日本人は親切で、俺たちは労働もしなくてよかった。君たちは大変だなあ』と自身の捕虜生活を話したあと、『スコーラ ダモイ(すぐに帰られるよ)』と最後には必ず、まじめな顔で励ましてくれました」
 この思い出話にも、わたしは興味を持った。妹と同じ年齢ならば、現在、76歳。宮野さんがタムガを訪れることができるならば、60年ぶりの再会の可能性が高いと思っていたのだ。タムガ行きを誘ってみた。宮野さんは、
「ゾーヤは元気であの真っ青な湖を眺めているのだろうか」
 とため息をついた。
 
日本兵を知らない子供たち

 2008年7月1日、成田空港を出発して、ソウル経由でアルマトイへ向かった。翌日、バスでキルギス共和国のビシケクへ到着した。もちろん宮野さんも一緒だった。武内さんは高血圧のためドクターストップとなり同行を断念したため、抑留者は宮野さんひとりだけの再訪である。
 ビシケクでは、キルギス日本センター所長の濱野道博さんと会い、在キルギス日本大使館を訪問した。このとき、臨時大使の笠井達彦さんから、思いがけない話を聞くことになった。
「タムガに日本人の墓がある。遺骨を一刻も早く返してあげたいという村人が大使館を訪問しています」
 というのだ。
 元日本兵や日本人の捕虜の数は125名。しかも、全員が復員している。これは、キルギス側の証言、抑留された元日本兵だった宮野さんや武内さんの証言も一致している。ところが、タムガに日本人の墓があるという。他にも、タムガのラーゲリに送られた日本人がいたのだろうか。日本人の墓が本当にあるのだろうか。この点を確かめるために、濱野所長と在キルギス日本大使館二等書記官の井上広勝さんも一緒に、タムガでの証言に耳を傾けることになった。
 7月3日の朝、タムガ村をめざしてビシケクのホテルを出発した。まずは、オペラ劇場へ。ここで同行取材を申し込んできたキルギスのテレビ局や新聞社の記者やスタッフと合流する約束になっていた。
 オペラ劇場は、レンガ積みの作業を抑留された元日本兵が行ったと伝えられている。そのために、立ち寄る予定にしていたポイントであった。バスを降りて建物に向かうと、小学生や中学生の集団に囲まれた。何かの催し物を見に来た子供たちのようだった。早速、彼らに質問をした。
「このおじいさんは日本人です。60年前は兵隊でした。当時は20歳くらいだったんですよ。捕虜になってキルギスで病院を建設する工事をしていました。日本人の捕虜が、キルギスで道路を作ったり建物を建てたという話を聞いたことのある人はいますか」
 日本人の捕虜の話しを聞いたことのある子供はいなかった。60年前、捕虜となった日本人がキルギスにいた事を知っているのは、一部のキルギス人だけなのであろうか。30分ほどオペラ劇場の前で子供たちに次々と質問をしてみた。
日本兵の話を知っている子供は、ひとりもいなかった。



60年ぶりの収容所訪問

ビシケクからタムガまでの道のりは約350キロ。途中で休憩や食事、撮影や取材を挟んで、タムガ村に到着したのは夕方の6時30分頃となった。幸い、宿泊する民宿は、サナトリウムの入り口にあった。ゲストハウスの主人は「20時頃までは明るい」というので、すぐにサナトリウムを訪問することにした。
「何か思い出すことがありますか」
 と宮野さんに聞くと、
「当時はサナトリウムができて10年余りと聞いていました。だから木が小さくてサナトリウムの中の建物を全部見渡せました。湖も見えていたのですが‥‥」
記憶と違う光景に宮野さんは戸惑っている風であった。
実際、サナトリウムは緑が多く林の中にあるような雰囲気なのだ。入口に立ってみたが、豊かな緑に遮られて、建物を見渡すことも、イシククル湖の青い水面を眺めることもできない。60年の歳月で木々は大きく成長し、景観がすっかり変わったようである。ところが、元日本兵が建てたと伝えられている建物の前で、宮野さんの足は止まった。
「さあ、宮野さん、建物の中も見てください」
 と声をかけた。一呼吸置いた後、宮野さんから笑顔が帰ってきた。
「建物は大きいけれども、狭い玄関。昔のままなので‥‥。動けなくなってしまいました。外装は新しく塗り替えられていますが、これは紛れもなく、私たち125名の2年間の汗と涙の結晶です」
 部屋の間取りにも見覚えがあった。宮野さんはカメラに収めるのも忘れて、建物の中をぐるぐると歩き回った。一生懸命に、60年前の光景を思い出しているのであろう。
 そして、建物の正面でトラックの運転手として働いていたというイワノビッチさんと60年ぶりの再会を果たした。だが、二人の記憶はかみ合わない。
「顔には見覚えもないし、いまひとつ記憶がかみ合わないので歯がゆい思いでした」
 そんな場面でイワノビッチさんは突然「カタパン」と暗号のようなひと言を漏らした。
 その一言を聞くと宮野さんは笑顔になった。イワノビッチさんの手を握ると声をかけた。
 話の内容はわからなかったが、それはロシア語での会話だった。宮野さんは、徐々にタムガでの抑留生活を思い出してきたようだった。

キルギス人の証言

 どうして「カタパン」という言葉で、宮野さんは笑顔になったのか。何故握手を求めたのだろうか。
 抑留当時、ソ連の総監督責任者は、チョルダフレーボフといい、小柄だが目が鋭く注文が厳しい男だった。そこで元日本兵たちは「カタパン」とあだ名をつけた。「カタパンが来るぞ」と伝令が飛べば、疲れたからと言ってマイペースでの仕事はできない。うわべだけでも懸命に働いているふりをして、「カタパン」が通り過ぎるのをやり過ごさなければならなかったのだ。
 元日本兵がつけたソ連側のリーダーのニックネーム。イワノビッチさんがそれを知っているので、宮野さんは一緒に働いていた仲間だと確信して、思わず握手を求めたのだったという。
 翌日の7月4日には、朝食後、元日本兵のことを知っているという4人の村人が宿にやってきた。彼らの証言は伝聞もあったが、次のような点で宮野さんの記憶と一致していた。
① 元日本兵はタバコの葉を巻く紙がほしいので、私の家へよく来ていた。新聞紙を与えていた。
② ひとりの元日本兵が脱走したが、直ぐに連れ戻された。
③ 工事現場で大きな事故が発生して、けが人が出た。けが人を他の元日本兵がトイレに連れていくなど親切にしていた。
証言をしてくれたのは3人の村人だった。そろそろ解散しようというとき、小太りで髭をたくわえた男性が話を始めた。
「カタパンの部下で、元日本兵といっしょに働いていたザビエロフの息子です」
 そういうと持ってきたファイルから写真を取り出してテーブルに並べた。退職後、測量技師として働いている写真もあった。父親は、定年退職後、元日本兵と一緒に働いていた思い出話を子供たちに話す機会が多かったという。だが、父親は数年前に亡くなり、母親も昨年(2007年)亡くなったという。息子もザビエロフという名前だった。タムガ村の学校で校長として勤めており、年令は48歳とも話してくれた。
 午後は、元日本兵の墓があるという現場を訪れた。イシククル湖を見渡せる高台の上にあり、水はけもいいことから墓地としての環境は整っているように私には感じられた。だが、埋葬された年代がはっきりしない。場所を確認しただけとなった。調査は今後も引き続いて行うこととした。その後、石灰岩を切り出して生石灰を元日本兵が作っていたという証言に基づいて現場を訪れることにした。タムガから南へ、車でバルスコーン渓谷を上っていく。悪路を進んで徐々に高度を上げた。風景は、草原から山の斜面に針葉樹の並ぶ風景へと変化した。
 30キロほど南下して、標高は約1000メートルあげた。車を止めて、案内役の村人の背中を追って川の斜面の岩場を行く。川原へと下りる途中の斜面に直径3メートルほどの穴があり、内側に白い石が円形に並んでいる。深さも3メートルほどであろうか。
「確かに石灰石を焼く窯です。でも、道路側の風景が記憶と違います。もっと平らだったようです。川もこんなに近くなかった。でも、川向うに針葉樹の並ぶ斜面は、見覚えがあるように思います。何しろ60年も前ですからね」
 60年前に記憶は、その場に立つことで鮮やかになってきたという宮野さん。石灰石を焼く窯が、他にもあるのか周辺も歩いて調べてみたかった。だが、天候が急変。土砂降りの雨のため、タムガへ戻ることにした。

資料室の開設を国防相と交渉

7月6日からはイシククル湖をバスで一周して観光に費やした。7月10日、懸案の交渉のためにビシケクにある国防省へ出かけた。
 というのも、昨年秋のタムガ村訪問で看護師のナターリアさんから聞いた「日本人の抑留者と施設建設の歴史を紹介する資料室」の開設を、日本側が主体となって進める計画を、立てていたからだ。

 キルギス国防省では、5人の職員に、キルギス外務省の職員2名も交えて話し合うことができた。在キルギス日本大使館書記官の井上さん、キルギス日本センターの濱野さんも同行してくれた席で、相互交流の促進のためにも協力するとの回答を、キルギス国防省から得ることができた。
 資料室開設の話し合いは、思いのほかスムースに進んだ。だが、そう決まるとこれからが大変だ。「資料室」を通して、サナトリウムの建設に元日本兵が関わっていたことを伝えるために、私は次のような展示構成を考えていた。
 元日本兵が使っていた食器や個人的な持ち物。元日本兵の若いころの写真。写真から当時の服装を複製。工事で使っていた道具の複製品。サナトリウムの模型(地図)。元日本兵の証言を納めたDVD。タムガ村の人の証言を集めたDVD‥‥。
 このうち証言の収集は、抑留者の年齢を考慮すると時間との競争が予想される。また、資料室を開設する場所は、国防省が提供してくれても、内装の整備などは日本側の役割となる。これらを実現するために資金集めも課題である。



取り壊されている元日本兵の足跡

 近年、モンゴルのウランバートルでは、元日本兵が建設した政府庁舎(国会議事堂)が取り壊されて、新しい建物に代わったと聞く。カザフスタンのカラカンダでは、元日本兵が建設したオペラ劇場が取り壊されたとも聞く。抑留の歴史の証人ともいうべき建物が、消え去ろうとしている。
 その一方で中央アジアでもモンゴルでも、捕虜であった元日本兵のまじめさや礼儀正しさ、頭がよくて仕事もできたといった評価が、今も言い伝えとして広がっている地域が多い。各地で元日本兵は、敬意をもって言い伝えられているのだ。その結果、日本の文化や言語に興味を持つ若者が今も多いのだという。
 こうした状況だからこそ、キルギスに抑留された元日本兵の証言や、元日本兵の働きぶりを知っているキルギス人の証言は、記録して誰もが接することができるようにしたい。それを可能とする施設が必要だと思われる。
 日本とキルギスの相互の友好関係を深めるためには、あるいは戦争や抑留と言った「戦争の愚行」を再び繰り返さないためにも、こうした形で実態を明らかにしておくことが大事になるだろう。

中央アジアにおけるシベリア抑留に関する資料
シベリア抑留に関する資料

ブログ内にある中央アジア抑留に関する記述