Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「西行 歌と旅と人生」 6

2024年07月14日 21時41分22秒 | 読書

   

 「西行 歌と旅と人生」の「16.神道と西行」、「17.円熟」を読み終わった。

 西行の最晩年の歌として有名な歌がある。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな  (新古今集)

 この歌について「(慈円は)西行自らが、この歌を自嘆歌の第一にしていたという事実を伝えている。この歌によって、歌いたいものを歌い切った、という強い思いがあったのではなかろうか。西行の歌人としての生き方を締めくくる生涯の絶唱」(17.円熟)と記載がある。

 私もこの歌がとても気に入っている。しかし私は、「歌いたいものを歌い切った」という断定には与したくはない。歌自体からは「煙の空に消えて 行方も知らぬ」という句からはどこか諦念のような、あるいはもどかしさすら漂ってくると私は感じている。
 人間、そんなに「やり切った」という満足感というのは生涯の末近くなったという自覚のある時に訪れてくる感慨であろうか。あったとして「ここまでだったか」「時代は自分の思うところには行きつかない」という諦念の方が私には大きいような気がする。
 その私の気持ちをさらに強くするのは、次のエピソードがその後に起きているからである。

 1186年、鎌倉に辿り着いた西行は頼朝に面談を求められ(頼朝が鶴岡八幡宮で偶然西行を見かけたことになっているが、私は事前に何らかの互いの水面下の折衝があったと当然のように思っている。西行はそのような駆け引きもきちんとこなす人である)、「歌道ならびに弓馬のこと」を下問されている。最初は「弓馬」=兵法のことは「罪業の因たるによって、その事かつて心底に残し留めず、皆忘却しをはんぬ」と断っている。
 幕府を開く直前、平家から取り上げた荘園を500余を得、関東6か国を知行する権力の頂点をめざす武家の棟梁に対して「(兵法のこと)皆忘却しをはんぬ」とは豪胆な言いぐさである。現在に当てはめれば、東京都知事に面談する段取りとなり「あんたの政治に利するようなことなんか言わないよ」と開き直っているのである。たいした度胸である。
 何しろ、平家との人脈が強く、奥州藤原氏との同族という家柄であり、家を継いだという弟は荘園の利害で源氏とは相容れない関係である。首が飛ぶ緊張感が漂う面談である。吾妻鏡の記載は、ひょっとしたら頼朝による西行の連行・取り調べではなかったのかと勘ぐることもできる。

 頼朝が面談を請うたのは、奥州藤原氏の動向、平家の動向というなまぐさい背景がある時期である。出家者であり、政権に近い歌人であっても、この面談の背景は生臭い。結局西行は無理強いする頼朝に根負けする形で「弓馬のこと」を話をしているが、どのようなものであったかは詳らかではない。それほど血なまぐさい政治が、政権に近い貴族や武士・僧侶の周りには渦巻いている。
 だからこそあの西行の歌群が生まれたのである。この有名な吾妻鏡の挿話があるかぎり、「歌いたいことを歌い切った」という境地ということには与したくない。

 二度目の奥州紀行で秀衡から砂金の寄進を得て文覚の依頼を達成した西行は、京都の嵯峨にすむ。「聞書集」の「たはぶれ歌」13首から10首を引用している。私も好きな歌である。ここでは冒頭の1首をあげると、

うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の 声におどろく夏の昼臥し

 この「たはぶれ歌」13首の方が、私には最晩年の境地が漂ってくるように思える。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。