Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

解除になっていた「大雪・風雪・雷注意報」

2017年02月10日 23時42分21秒 | 天気と自然災害
 23時30分現在、気象庁のホームページでは、いつの間にか大雪・風雪・雷注意報が解除になっている。しかし解除についてのメールが私の携帯電話には来ていない。私は(株)エムティーアイからの情報を契約しているのだが‥。
 いつもは警報・注意報の解除は、必ずメールがその都度発信されてきた。
 確かに私の住んでいる団地の周辺ではとっくに雪は止んでいる。芝生にうっすらと雪が残っている程度である。路面にも雪は残っていない。
 
【追記】ようやく「解除」から1時間近く遅れてメールが到着した。横浜市域に出されていた注意報が23時5分にすべて解除になっていた。(0時6分)

横浜に大雪・風雪・雷注意報

2017年02月10日 20時09分11秒 | 天気と自然災害
 先ほど横浜駅から家に戻る途中、雪が強く降りだした。横浜駅周辺では雨に雪が混じる程度であったが、私の住む団地の丘に向かう尾根道にバスが入った途端に雨がなくなり雪ばかりとなった。湿った大粒の雪で、アスファルトの上では融ける前に次の雪片がかぶさり、つもるるように降り始めていた。

 18時直前に横浜市域に「大雪・風説・雷注意報」が発令となった。芝生がうっすらと白くなった。しかし現在は雪は止んでいる。あのまま降り続けたら間違いなく積雪を記録したかもしれない。


テレビと読書

2017年02月10日 18時26分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝の内は太陽が顔を出していたが、昼前には南から西にかけて厚い雲が空を覆っている。東と北は雲は半分くらいだろうか。風が少し出ている。
 13時を超えてから痛いのを我慢しながら横浜駅の整形外科に向かった。35分歩くのは難しそうなので、バスを利用。低周波治療のあとは珈琲の1杯でも飲みたいものである。
 終日家にいると、見るともなくテレビの電源を入れている。私の場合はドラマよりも、科学番組・美術番組・クラシックかジャズの番組などが好みである。だが気に入るような番組はいつもは放映していない。どれも身を入れて見る気にはならない。かといって読書もままならない。不思議なものである。読書に身が入らないのは、最近のすぐに疲れる眼の事情もあるが、やはりあの7日の傷みの精神的な後遺症だと思う。臀部から太ももにかけての痛みが鈍痛として継続しているのが、どうしても気にかかる。テレビの場合はそこまで緊張感がなくとも継続して見ていられる。読書よりも眼は楽である。読書の方が本と眼の距離が近いためだと思われる。脳の緊張も、意識の集中力も読書の方が求められる。
 小学校の時、今の3チャンネルで実験的にテレビでの実験などの授業が行われた。私は最初真剣に見ていた。今から思うと、意外と集中力がなく見ていたようで、細部の記憶がない。実際に蝋燭をともしてじっと見つめていた時の方が集中力と細やかな観察ができたと思う。その時の方の記憶の方が鮮やかである。
 しかもテレビで見た蝋燭の燃焼実験は、教室でも行った実験の焼き直しだったうえに、教科書とは少し違うやり方や考察に飛躍があるように思えた。些細なことではあるが、蝋燭の燃焼実験で同じ形で同じ大きさの蝋燭の燃焼時間は同じ、という結論がどうしても納得できなかったことは鮮明に覚えている。
 その結論に至るには、蝋燭を支える皿の形状・突き刺す台の針の形状や大きさ、最初の芯の長さなどが考慮されなくてはいけない、と感想を生意気にも書いたことを覚えている。そのどれもが教師から無視された。小学校5年生の担任には煩わしい児童であり、同級生からは小生意気に見えたと思う。その質問をした時の教室全体の冷たい目を今でも覚えている。
 今はどうなっているかは知らないが、ビデオやテレビでの授業というのはどこか予定調和的なものがあるのではないか。実験などと言うのは、予期しない結果や想定外の事象が起きてこそ、その目的が徹せられる。予定調和的な実験など意味がない。そんな生きた授業は今の時代はどのように想定されているのであろうか。

 しかし私は本当にかわい気のない小学生だったと思う。こんな児童は扱いにくかったと心底思う。私が教育者だったらどうやって付き合ったらいいのだろう。自分のことながら、今でも首を傾げてしまう。

冬の雷・寒雷

2017年02月10日 12時02分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩、布団に入ると冬の雷が遠くで鳴っていた。最初はいつものとおり米軍の飛行機かと思ったほどだが、まさか深夜2時に立て続けに飛ぶわけはないし、また移動している音ではなかった。雪模様の時に雷はときどき発生する。

★寒雷やぴりりびりりと真夜の玻璃       加藤楸邨
★冬の雷家の暗きに鳴り籠る          山口誓子
★寒雷のふたたびを待つ背を正し        山口みづえ


 昨晩遠雷を聞いていた気分は第2句と第3句に近いだろうか。第1句目は昨晩の雷の距離からは近すぎる。遠くから山並みのように押し寄せてくる感じで雷鳴が響いていた。昼間なら多分認識できなかったおもう。
 第3句の「背を正し」というのが私の実感でもあった。遠雷を待ちながら特に何かを考えていたわけでもなく、どこかで心地よい、身体のリズムに沿ったような響きを孤独のうちに待っている時というのは、姿勢を正して待つものかもしれない。
 何が起こるのかわからずに緊張して待つときは身構えている。しかしこの「背を正し」ているのはそれほど緊張していないし、身構えてはいない。この第3句からは、次は間近でガラスが「びりりびりりと」来るとは思っていない作者が想定できる。危険が迫っているとは考えていないと感じる。
 だが、昨晩のあの遠雷の響きはいづれの時もほとんど同じ大きさ、余韻のながさなど実によく似ていた。あれ以上同じ音が届くと、「人工の音か」と思ったかもしれない。

痛みは小康状態

2017年02月10日 10時43分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雪交じりの雨は夜には雨だけとなったが、とても冷たい雨であり、空気はとても寒い。明け方は間違いなく凍結していたと思う。
 昨晩は二日ぶりにお風呂に入った。二日間朝のシャワーだったので実に気持ちよかった。
 昨日から今朝にかけて、坐骨神経痛の痛みは少しおさまっていた。それでもベッドへの上り下り、椅子から立ち上がる時などは壁や机などの家具に手を添えてゆっくりと体重移動に心掛けている。動作がすっかり遅くなった。いかにも歳を重ねたように見えるらしい。
 おさまっているとはいっても右臀部と右太ももの外側の筋肉の奥の方に痛みはある。立つときや歩くときはお尻を突き出していないとその姿勢を保てない。そしていつ痛みが走るか不安がまず先に立つ。家の中でも杖があった方がいいのか、あまり杖に頼らない方がいいのか、思案のしどころである。
 今晩からは湯たんぽで温めるのはしばらくは中止をしてみることにした。どちらかというと暖かい方がいいのだが‥。電気行火はあまりよくない。湯たんぽというのが気に入っていた。症状がおさまってきたら寒い期間は再度利用しようと思っている。湯たんぽなんぞに頼る生活は恥、と考えていたがそうも言ってられない。
 本日は久しぶりにテレビを長い間見ていた。90分にわたって、NHKのハイビジョン特集「大雪山 雪が育む神秘の高原(初回放送:2009年)冬の間に3億トン以上もの膨大な雪を蓄える北海道大雪山の長期撮影記」で厳しくも美しい大雪山系の四季の映像を見ていた。
 このような番組がたくさん放映されると嬉しいものである。