Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東京都横網町公園訪問 その2

2017年02月27日 23時11分36秒 | 山行・旅行・散策
   

 昨日の東京都横網町公園のリーフレットに次のような資料が掲載されていた。記録として貴重だと思ったので、掲載して記憶しておくことにした。頭の中の記憶はすぐに消えるので、画像としてパソコンの中にも取り込んでおくことにした。
 これによると東京の空襲は115回(伊豆七島の25回を含む)も数える。島しょ部を除くと90回というすごい数である。逆にいうと伊豆七島では六島(八丈島・新島・大島・神津島・式根島・三宅島)に及ぶ25回も空襲があり、八丈島・新島などで25人が亡くなっている。これがどういう目標をもってなされたかはわからない。軍の施設があったのか、飛行場があったのか、私の知識ではまったくわからない。もしかしたら孤立している農村部の市民を対象にした空襲だったのだろうか。
 いづれにしろ115回を数える空襲でのおびただしい犠牲者の数に言葉を失う。ここまで空襲をしつづける米国と、これでもなお戦争を継続した日本の軍部・政治家、政治と戦争のむごさに思いが昂じる。今の政治の危うさもまた憂えたい。


神経痛の痛みは弱まったが、座るのが怖い

2017年02月27日 20時17分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日国立西洋美術館で開催された「シャセリオー展」の内覧会は無事終了。展示作品の感想は明日の大腸の内視鏡検査が終了してから考えたいと思う。明後日以降に掲載したい。
 テオドール・シャセリオー(1819-1856)という37歳で亡くなった画家のことは名前も聞いたことがなく、そして作品を見た記憶もなかった。本日展示をみても「アポロンとダフネ」は見たことがあるかもしれないと思ったものの、同画題の作品や似た作品を見た可能性の方が高いので断定できない。
 しかしギュスタープ・モローとの交流やオディロン・ルドンへの影響など興味深い。じっくりと図録を読んでみたい。

 本日も昨日と同様あまり痛みを感じなかった。ただし横浜駅から上野駅間の往復はともに座ったが、立ち上がるときに痛みを感じる。電車をおりて10分も歩くと痛みは薄らいでくる。帰宅するために横浜駅からバスに乗り、15分ほど座ったらやはり少し痛みが出た。家にいてもパソコンの前に長時間座ったり、食事のために椅子に座ると立てなくなる。
 これを続けると座るのが怖くなる。人に座席を譲られるのが怖くなる。じっとしていても痛みが出るので、家にいるのもつらくなる。

 明日大腸の内視鏡検査のときに痛みが出ると困ると思っているが、そればかりを考えていると憂鬱になるので、考えることは止めた。
 本日帰り際に図書館に寄って返却期間を延長した「ゲルニカ」(宮下誠、光文社新書)とシャセリオー展の図録と、推理小説を交互に読みながら明日に備えたい。

明日は大腸の内視鏡検査

2017年02月27日 11時45分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は毎年受けることになっている大腸の内視鏡検査。50歳のときから毎年受けさせられている。何回しても「慣れる」ということが出来ない。腸管洗浄剤を2リットル飲み切ることと排出しきること、内視鏡を大腸の一番奥まで入れること、いづれも結構つらいものがある。事前説明のときに看護師からいつも「もうすっかり慣れておられますから大丈夫ですね」といわれるが、そんなことはない。いつも憂鬱になる。
 本日の朝から食事の内容が制限される。「繊維質の多い野菜・果物・種のあるもの・キノコ類・海藻類・しらたき・こんにゃく・とうもろきしや豆類・ゴマ・乳製品、などは食べないでください」といつものとおりの指示。「食べてよいものとして、白米・うどん・食パン・白身魚・豆腐・卵・ハム」を勧められている。アルコール・牛乳・乳製品・果実入りジュースもいけない。
 21時下剤服用。明日の朝から腸管洗浄剤2リットル服用である。検査は13時過ぎから。


 本日は朝の痛みは軽い。11時前には歩くのに違和感はほとんどない。用心のため杖は突いている。午後からは上野の国立西洋美術館で「シャセリオー展」内覧会。この内覧会が夜からでは厳しかったが、昼過ぎから開催ということで、申し込んだ。50名の募集のところ40数番目ということで何とか先着順という枠内に収まった。
 西洋美術館での内覧会は初めてだったような気がする。楽しみである。

東京都横網町公園訪問

2017年02月27日 08時41分21秒 | 山行・旅行・散策
   

 公園の案内パンフによると、おおよそ次のように記されている。

 1922(T11)年、当時の東京市は陸軍被服廠の移転に伴い、跡地を買収し公園を造成していた。その最中の1923年9月1日の関東大震災が発生、多くの人がこの公園跡地に避難したものの、運び込まれた家財道具に飛び火し、多数の死傷者を出した。この遭難者の霊を供養し、復興させた大事業を記念するため公園内に慰霊堂と復興記念館を建てた。
 その後、東京大空襲の犠牲者である一般戦災者の遺骨も安置することになり、現在に至っている。
 関東大震災の死者5万8千人の遺骨を納め、東京大空襲のなどによる殉難者の遺骨も10万5千体が安置されている。


 公園内には、慰霊堂、復興記念館、、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑、震災遭難児童弔魂像、幽冥鐘と鐘楼、朝鮮人犠牲者追悼碑、震災記念屋外ギャラリーなどがある。特に平和を祈念する碑は季節の花できれいに飾られている。

短い時間であったが、一通り園内を回り、同行者と共に慰霊堂にて焼香を行った。