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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

忙しさに自分を追い込んでしまう

2015年04月07日 22時43分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「現在の方が遥かに忙しい様に思える」「週休二日制を」というご指摘をいただいた。とてもありがたいアドバイスと受け止めている。すでに妻からも、またブログのコメントをもらっている他の方からもやはり同様の指摘をもらっている。

 現役の頃と現在を比べるとどちらが忙しいのか。自分でもよくわからないだが、多分、今の方が好きなことばかりしていることは確かである。
 現役の頃は労働組合の専従役員になることは拒否をし続けてそれが私の誇り・自負とし、常に仕事を人以上にこなしてきた。現場から離れた労働組合の役員というのは必要悪であると思っている。そのような立場に自分を追い込みたくなかった。
 そういった意味で労働組合の役員として自分の培ってきた人脈を大切に維持していきたいという思いと、自分が40数年前からやりたかった各種の講座の受講ばかりを今しているので、忙しいという感覚よりも、楽しいという感覚が先に立ってしまう。

 つまり忙しさが、忙しい・苦痛であると感じないのがいけないと思っている。そのためにいっそう自分を慌ただしい方へ追い込んでしまう。もともと他の人から「貧乏性」と云われ、自分でもそう自称していた頃がある。いつも何かに追われるように何かをしていないと何か不安なのである。そこに自分をどんどん追い込んでいく癖がある。
 いつも緊張の糸がピンと張っていないと落ち着かないのだ。そうすると緊張がぷつんと切れたときの反動が極めてひどい。切れたときの痛手が極めて大きい。その痛手に耐えている自分をまた自分で愉しんで眺めていいる自分がいる。痛めつけられるのが快感になっていることがある。

 これはこのような慌ただしい自分に余程自覚的にならない限り、週休二日を実践することは難しいようだ。
 退職者会の取組みの中で、楽しみを見つけ、ストレスの解消法を身につけないとまずいようだ。それを模索しながら対応するしかないのだと思う。

 明日の会計監査に向けて本日中に資料を4部印刷しなくてはいけない。これから30分で作り上げてしまいたい。

不健康な食事

2015年04月07日 21時16分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は寒かったが、業務はそれほどなくて助かった。少し早目に引き上げてきて、つい先ほど21時少し前に帰宅。
 しかし夕食は慌てておにぎりと太巻き、カップヌードル、味噌汁を分散して食べたので、ゆっくり食べた気がしない。後からお腹が膨れてきてとても変な具合である。食事はゆっくり座って一連の動作の中で食べたいものである。ただしアルコールを飲んでいないというのは悪いことではあるが、このような食事のとり方はいかにも不健康である。

 さて古い友人に手紙を出したら、さっそく返事をもらうことが出来た。45年ぶりに言葉を交わしたと思う。とても嬉しい文通となった。これからも文通は続けて行きたいと思っている。


「心が和む」ということ

2015年04月07日 10時26分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 さすがにくたびれた。本日も朝から15時間の業務が続く。
 そんな時には春の花が目に入ると心が和む。たぶんこの「心が和む」ということがなくなると、仕事は粗雑になったり、齟齬をきたしたり、周囲をトラブルを抱えることになると思える。あるいは精神的にゆとりがなくなるということなのであろう。
 現役で仕事をしていた時から、あわただしくなればなるほど、立ち止って窓の外の景色を眺めたり、職場の周りをひとまわりしたりした。無意識にそのような行為が出来ている間は何とか仕事を乗り越えることが出来たように思う。
 この行為をしなくなったり、忘れてしまったりすると、何かしらのトラブルや周囲との軋轢を生んでしまう。

 年齢を重ねると人はゆとりを失うとよく言われる。私の経験では、仕事に行き詰ったり、あわただしさに押しつぶされかかっているときに、周囲を見渡すゆとりを自覚的にできなくなるのが、「老い」というもののような気がする。
 多くの人が若い時から仕事のこなし方で「老い」を体現しているように見える。「時代はどんどんむごくなっているのではないか」と思う。現代は「老い」が人生のもっとも輝く年代から発現してしまっているのではないか。時代はますます人生に過酷になってきてはいないだろうか。

 働き盛りの若い人を見るたびに、そんなことを思う昨今である。