Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日の後遺症?

2013年02月04日 18時53分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から胃の辺りが重苦しい。どうも昨日の中華料理が胃にもたれているようだ。いや、中華料理がいけないといったら中華料理に失礼になる。単純に深酒がいけないのだが、つい料理の所為にしてしまう。
 昨晩は何も食べずにひたすら寝ていたし、朝も紅茶とヨーグルトにした。お昼はお腹がすいたように感じたので、少しご飯物を食べようと思い、太巻きを4切れほどと、昨日の残り物の春巻きを3本ほど。急に食べ過ぎたのかもしれない。

 朝からブログの記事をアップして、コメントに返信をしたら14時を過ぎてしまった。往復30分のスーパーへの買い物を付き合ったら雨が降ってきて、出かける予定のウォーキングもだめになってしまった。
 胃が重いだけでなく、足が運動不足を嘆いている。体からお酒の毒素というか、老廃物を出したがっているような気分でもある。

 17時過ぎには雨が上がっていたので、5キロほどをジョギング。多少からだの動きは良くなったが、何となくまだ重い。気温はずいぶんと高く感じた。

 もともと本日は、所用があって大人数でも入れる新宿駅界隈の喫茶店を探す予定だったが、明日に繰り延べ。ついでにどこかで面白い展示が行われていればいいのだが‥。



エルグレコ展感想(その2)

2013年02月04日 13時29分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 この絵は「フェリペ2世の栄光」という題名となっている。エルグレコがスペインに赴いたときのスペイン王である。絵のいわれは、オスマンへの対抗として、教皇・ベネティア・スペインの同盟を讃えるという解釈や、フェリペ2世の最後の審判の場面などがあるそうだ。図録では後者の解釈となっている。

 私が興味を持ったのは、地獄の場面が、同時代のフランドルのブリューゲルの絵を思い出したからだ。ブリューゲルの絵はフランドル地方の諺の絵解きの絵らしいが、その意味するところはよくわからない。しかし魚がグロテスクで否定的な印象を持つものの象徴のように描かれている。



 ひょっとして魚の内部は地獄の象徴、あるいは貪欲が地獄へ通ずる暗喩なのかもしれない。
 そしてエルグレコの絵の左下の地獄の様は、魚のようなグロテスクな怪物の口の中に表現されている。
 教会からの注文は受けなかったらしいブリューゲル、プロテスタントとカトリックの争いを風刺的に描いたブリューゲルと、カトリックのために描いたブリューゲルとは比較すること自体が意味のないことなのかもしれない。比較するのも、連想するのもあくまでも素人の私の思いつきでしかないのだから、笑われてしまうのは覚悟で触れてみた。

 さてこの絵、1579年以降ということで、スペインに渡って間もない頃の絵らしい。しかしすでに原色の衣服、衣服のひだの強調、細長い身体、上半分の天国の情景に現れる下から上方へのうねるような流れ、色彩を利用した場面の分割、遠近法の消滅など、晩年の要素が十分に出ている。
 私は真ん中の橙色の煉獄の情景に最初に目が向いた。エルグレコの絵では珍しい色のような気がした。水の流れのようなところに飛び込む人間の様はどのような状況を表しているのだろうか。そして煉獄がこのように輝く色彩で覆われる理由は何なのだろうか。これもいわれが知りたい。
 そして次に目が行ったのが、下の真ん中にいる黒い服の人物=フェリペ2世だ。最後の審判を受ける被告のように敬虔な表情ということなのだろう。なお、後ろ向きだがフェリペ2世の左にいる黄色の服の人物や、その更に左の青・赤の服の人物は誰なのか、気にはなる。必ず具体的な人物が想定されるはずだ。残念ながら図録には解説はない。
 私などにはこのような権力者の賛美の絵はとうてい場面として想定したり思い描くことはできない。そういった意味で、王侯貴族・教会関係の絵や聖人の絵は描かなかったブリューゲルの立場の方が私の好みだ。権力者や教会という権威への諷刺を利かせた絵は魅力的だ。しかし如何せんその描かれた絵の寓意はとても理解できない。あまりに難解である。

 それはそれとして、あふれるばかりに輝く色彩による画面の分割、写実を超えた人体表現、現実と超現実の不思議な響き合う同在など現代絵画に通じるような感覚に襲われた。



 この「悔悛するマグダラのマリア」という絵も今回の展示の目玉である。多くの人がひきつけられた絵だと思う。やはり前の絵と同時期の1576年というからトレドへ移った頃の絵らしい。
 この絵には明るい赤や黄などの色は使われていない。二色の青の衣服と雲間にわずかにのぞく青い空が目を惹く色だ。それだけなのに、画面全体はとても明るく感じる。金髪の色はそんなに目立たない。そしてあらわな肌の色が、雲の一部の色と響きあってなまめかしい。
 新約聖書でもマグダラのマリアは不思議なそして気になる女性である。キリストに会い娼婦から悔悛して最後までキリストに従う。そして復活の場面に立ち会う極めて重要な聖女である。ある本ではキリストの妻であるとも書かれたりしている。
 とても信じられないが、彼女がキリストの死後フランスのマルセイユ近郊で世に隠れて生活したといわれているらしい。この絵の元はエルグレコに多大な影響を与えたベネツィアのティツィアーノに由来するらしい。
 この絵、聖女の現実的な美しさと同時に、顔に比して少しばかり大きめの両手の指のなまめかしさにはっとさせられる。動きが感じられる指の仕草だ。
 同時に私は雲間からさす日の光の透明な明るさがこの絵のポイントに思えた。この雲間の青と光りがなければこの絵は単なるブロマイドになってしまう。たしか雪山行二氏の講演で、このあつい雲からあふれる日の光りの光景はスペインの気象に関係あると聞いたような気がする(違っていたらゴメンナサイ)。背景の村や海の情景は図録によればベネツィアのラグーンのようだと記されている。
 悔悛という言葉、対抗宗教改革の理論の中で特別の意味を持つらしい。「懺悔は告解あるいは悔悛とカトリックでは呼ばれ,洗礼や聖餐と同じレベルとして扱われる。信者は聖職者の前で自らの罪を告白しならない。プロテスタントではそのようなことを罪の赦しは、告白ではなく神の赦しによってのみなされるという立場」のようで儀式としてどう扱われるのかわからないが、カトリックの画家を地で行くエルグレコには重要な画題であったようだ。
 しかしこのような画題の絵にも写実を通り越した生き生きとした仕草の女性を描くエルグレコという画家、なかなかに魅力的である。


  (その3に続く)