syuの日記・気まま旅

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古河総合公園 古河の旅ー6

2016-07-31 | 気まま旅

「鎌倉公方」
1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立「観応の擾乱」、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代し、関東管領を補佐役として関東十か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになる。
将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まったと云う。
1379年の康暦の政変の直前、第2代鎌倉公方「足利氏満」が幕府分裂の危機を察知して挙兵を企てたが、関東管領(上杉憲春)が諫死したことで断念。
1399年の「応永の乱」に際しては、今川貞世の仲介で大内義弘と第3代鎌倉公方「足利満兼」が連合を組み、一致団結して京都を攻めることが構想されたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫。
「永享の乱」の際には関東管領(上杉憲実)とも対立し、第4代鎌倉公方持氏が敗れ、1439年に自害させられたことで一旦断絶した。
1447年に持氏の子ー成氏ーが幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。
後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。
この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けている。古河公方の末裔は江戸時代にも喜連川藩として存続した。

足利義詮ー1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)~1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)
初代ー足利基氏ー1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)~1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)
二代ー足利氏満ー1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)~1398年(応永5年)
三代ー足利満兼ー1398年(応永5年)~1409年(応永16年)
四代ー足利持氏ー1409年(応永16年)~1439年(永享11年) 永享の乱で自刃。これによって鎌倉公方は一時断絶する
五代ー足利成氏ー1449年(宝徳元年)~1455年(康正元年) 1455年下総国古河に移り、古河公方となる
(足利政知ー事実上、鎌倉公方として在職できず、1457年、鎌倉公方として幕府より派遣されるも鎌倉に入れず。伊豆国堀越に留まった・堀越公方)
(足利成氏ー1483年~ 1483年、幕府との和睦(都鄙合体)により、政治的に鎌倉公方として復権するが、鎌倉には戻らなかった)

「古河公方」
成立した享徳の乱は、応仁・文明の乱に匹敵し、関東における戦国時代の幕を開ける事件であった。旧来の政治体制が大きく動揺し、新興勢力の後北条氏が台頭する遠因ともなる。
一方、関東における戦国時代は、史料が豊富で研究が先行している後北条氏の発展過程を軸として解説されることが多く、後北条氏以前の実態には関心が比較的低かった。しかし、近年の研究により、関東諸豪族から鎌倉公方の嫡流とみなされた古河公方を頂点とする、ある一定の権力構造が存在したことが明らかになっている。
後北条氏の関東支配の過程は、古河公方体制に接触し、その内部に入り込み、やがて体制全体を換骨奪胎した後に、自らの関東支配体制の一部として包摂する過程でもあった。従って、関東における戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。

古河盆踊り唄ー歌詞
ハァー古河の名所は御雀様よ 拝むその手でアレサヨー盆踊り
ハァー日光街道の松の葉乱れ 枯れて落ちてもアレサヨー二人連れ
ハァー幸手栗橋古河うる身なら 心関宿アレサヨー結城島
    

中央通りも、江戸時代の「古河宿の商家」・明治時代の煉瓦建物など修復されーギャラリーやホールに生まれ変わって観光スポットに。
古河城出城跡の「歴史博物館」・「鷹見泉石屋敷跡」・「文学館ー大正時代の香りが」・「街角美術館ー煉瓦造りの外観建物」・「三和資料館」
「奥原晴湖画室の繍水草堂」・「名木や神社仏閣」・「篆刻美術館ー篆刻家・故生井子華の作品など」が

                  街角美術館付近の路地
    

「永井路子」1925年(大正14年、東京本郷弥生町生まれ)~
直木賞作家の永井路子さんの旧宅を修復し一般公開。

    江戸末期に建てられたもので、約93m2の二階建土蔵造り(作品展示)
    

「妙光寺」 ー日蓮宗・山号ー法興山
旧本山は、大本山法華寺、小西法緑・創建1288年・日胤   馬頭観世音塔(市指定有形民俗文化財)

           葛飾北斎晩年の「七面大明神応現図」がある。
    

「宗願寺」-浄土真宗本願寺派 山号ー足立山・院号ー野田院
創建ー1217年 創建ー西念    明治44年「田中正造」請願所執筆のため宿泊している。
文化財ー木造親鸞上人像(45歳時)作風は室町時代初期ー像高48CM

             霊心僧都の作「阿弥陀如来立像」像高-66CM
    

歴代古河城の祈願所「明観山観音院ー長谷寺」-三長谷(奈良・鎌倉)
長谷観音ー山号明観山ー真言宗豊山派ー葛飾坂東観音霊場の番外札所。
古河公方の「足利成氏」が、古河城の鬼門除けとして、鎌倉長谷寺ー十一面観世音菩薩立像(206.34CM)を勧請し、堂舎を建立したのが起源という。

                本尊ー十一面観音菩薩立像安置
    

                       堂舎


「正定寺」-大手町ー山号・証誠山ー創建 1633年・開山玄哲・開基「土井利勝」
江戸時代初期、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた古河城主「土井利勝」の開いた寺。-土井家歴代の墓所ー
4代将軍家綱の母「お楽の方」供養塔・松尾芭蕉など歴史的文化財に富んでいる。

旧土井家江戸屋敷表門の黒門(市指定)と古河城観音寺曲輪の堀を挟んだ北側に隣接・追手門に近い武家地にある。
「玄哲」は、江戸芝増上寺13世廓山上人の弟子で、土井利勝の招きで下大野町の正定寺の両寺に。

境内面積3700m2で、11代土井利位が再興。
    江戸屋敷の赤門・鐘楼堂・弁天堂・・など江戸土井邸から移築されたという。
    

「浄善寺」ー真宗大谷派ー本尊 阿弥陀如来立像。
本堂左手前大銀杏がある。
                   日光街道沿いに
   

「了正寺」-浄土宗・創建1175年。
                総本山は、知恩院ー本尊 阿弥陀如来
  

「福法寺」ー浄土真宗ー
旧古河城乾門・二の丸御殿入口・左右に曲線をもつ「唐破風造り」

              親鸞上人の弟子正順坊が開基という。
                    
「三峯神社ー羽黒神社境内末社」ー旧日光街道ー
神社は、創立年代不詳。
社記に、1601年、羽黒神社長谷蔵前依り此の地に移轉と共に移遷す。
往昔は、神社の坤の方(南西)に藁葺宮とし奉齋し在るも明暦参年 1657年、に瓦葺宮と改築し1915年、銅葺宮石礎と改め雨覆を築きたり。
社には明暦参年臺原講を創立し秩父三峯に登山し地方講社最初の講とし厥の名高し依って官幣大社月山神社主典東條實氏并講元たる関口榮次郎氏の盡力により大正13年、茨城縣知事次田大三郎殿の縣指令第貮四八六號三峯神社を境内末社に昇格の件許可す。
是れ氏子の繁榮と本講・旺盛は實に神威徳大なる加護なりとす。また、大正13年9月、日本殿銅葺宮石礎雨覆建物木造鳥居は
茨城縣指令建第壹○五号號にて財産登録認可濟なり。
昭和8年、石華表は茨城縣指令建第四五号號にて財産登録認可濟なり。旹于石華表獻納記念・爲め氏名を碑陰に列記すと云爾
昭和8年、「羽黒神社々掌東條實撰文併書」とある。
                                                                                          鳥居と社殿             


「茨城県江戸幕藩石数」
常陸水戸徳川 35万石・土浦土屋氏 9万5千石・笠間牧野氏 8万石・「古河土井氏 7万石」・府中松平氏(石岡)2万石
下館石川氏 2万石・下総結城水野氏 1万8千石・谷田部細川氏 1万6千石・宍戸松平氏(友部)1万石・下妻井上氏 1万石
牛久山口氏 1万石・麻生新庄氏 1万石=12藩 

中世期ー下河辺氏が支配し古河公方足利成氏から5代足利義氏に  近世期ー徳川家康・利根川水運、日光街道、奥州街道ー古河宿場北関東要衝に
外様の谷田部・麻生を除くと、どこも幕府に蜜着する親藩、家門譜代である。
筑波山麓や鹿島など天領・旗本領が多いところである。

「古河総合公園・古河公方公園」-25haの広大自然公園ー
四季折々に美しい花々が咲き誇り、特に、春には、約1500本の桃の花が満開になるという。
古河総合公園は、日本初となる「ユネスコメリナ・メルクーリ国際賞を受賞した。
江戸初期、古河藩主「土井利勝」が、江戸で家臣の子供達に桃の種を白い集めさせて、古河に送って、領民に育てさせのが始まり。
桃の木は、燃料の薪としても役立ったという。-江戸時代を偲ばせる桃林の復活が。

            1975年大賀蓮移植ー千葉市より寄贈                                      


奈良時代の万葉集では、「阿久良我の許我の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに」(巻十四)古河付近に船渡しが。
平安時代「こが」の地名は、文献でも見られ、「吾妻鏡」に源頼朝に叛いた常陸の「志田義広」の軍勢を「下河辺」氏が討ち止めている。
鎌倉時代、御家人「下河辺・行平ー藤原秀郷の子孫」が古河に初めての「城」を築く。
南北朝に入ると「古河」という文字で表記れている。

                      巨木が多い


昭和26年ー大賀一郎博士が、「古代蓮」の実を発掘し発芽させたもので、周辺の土質などから約2千年前のものと推定されていると云う。
「おおがはす」は、博士の名にちなんだという。花見頃ー6月末~7月。

                   25haの公園内


「富士見塚」を中心に御所沼・花菖蒲・大賀蓮・矢口、源平、菊桃減郷・茶畑家・萩が植栽されている。


「古河公方足利成氏」の鴻ノ巣御所、1590年、秀吉小田原北条氏を降し関東を制した時に、5代足利義氏の娘「うじひめ」が古河城を出てこの館へ
「徳源院跡」-うじひめの院号(徳源院)・臨済宗鎌倉円覚寺の末寺。義氏・氏女・義親の墓が。
「旧中山家住宅」-坂東市の中山氏より寄贈佐多建築物・1674年頃と推定される。

「旧飛田家住宅」-農家の最も古い建築物・1800年頃
                    茨城県指定文化財


          歴史と伝統が息づく「古河」貴重な史跡が保存されている。


          御所沼に囲まれた公方様の森と館跡・旧家が並ぶ。


古河市は、利根川・渡良瀬川・東武日光線・JR東北本線と「谷中湖・渡良瀬遊水池(谷中村廃村)」・日光街道・国道354号線が。

                       御所沼


市祭りー3月の桃祭りから、8月の三尺玉花火・盆踊り・夢行灯・10月の関東ど真ん中祭り・12月の提竿灯竿もみが。
キノコ栽培・観察会・野草園作り・米造り・・自然と文化の再生をー頑張って下さい。


次回は、小山市方面へ。

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