目黒の町は、目黒不動尊、大鳥神社、法眼寺などが建てられた歴史のある街。
目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道橋を渡ると、角のビルの裏手に目黒川に下る細くて急な坂がある。
この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道である。
坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺がある。
この寺は、江戸の初期、元和年間、1615年に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。
山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群である。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張る。
釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。
大火犠牲者供養の羅漢像は、振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。
寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。
特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれている。
一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざまで、
個性あふれる石仏群を見ていると親しみがわいてくる。
この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。
この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。
天台宗行人派松林山大円寺 本尊大日如来
境内に五百羅漢の石像 阿弥陀堂
JR目黒駅から行人坂を下って数分、昔は江戸の遊楽地でもあった東京・目黒の一等地に「雅叙園」は位置している。
創業は昭和初期、昭和の竜宮城とも呼ばれた絢爛豪華な歴史ある建物、雄雄しい滝が流れ落ちる日本庭園はまるで東京にいることを忘れてしまう優雅さがあった。
雅叙園「百段階段」は、2009に東京都の指定有形文化財に指定された、目黒雅叙園に現存する唯一の木造建築であり、
江戸文化の贅を受け継ぐ昭和の色彩空間としていたが、今は、近代建築に変わっている。
随一残されているのが、ケヤキの板材でつくられた99段の階段廊下を持つ「百段階段」、階段廊下の南側には7つの部屋が連なって、
各部屋には樹齢100年を超える床柱や、天井や欄間には当時屈指の著名な作家たちによって創り上げられた世界が描かれている、
昭和初期における美の競演と大工の高い技術力をみることができる。
左側目黒川と雅叙園ホテル
かむろ(禿)坂「江戸時代、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴が森で処刑され、なじみの遊女小紫は悲しんで自害した。
この時、帰りが遅い小紫を探しに来たお付のかむろが、帰り道でならず者に襲われ、逃げ道を失い桐ヶ谷の二つ池に身を投げたという。
これを哀れんだ近くの人が亡骸を傍らの丘に葬り、その後この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂をかむろ坂と呼ぶようになった」という。
「かむろ坂」は山手通りの東急目黒線不動前駅近くから、線路の北側を目黒線沿いに武蔵小山まで続く坂道。道の両側の桜並木がトンネルを作り、
見事な景観になっている。
泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば、「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとったとき、神人の夢をみた。
その後大師が青年になり、唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、それが少年のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。
大師は奇異に感じ、帰朝後さっそく不動尊像を彫刻し、これを目黒の地に安置した」とある。
目黒不動の仁王門
本尊の不動明王石像 江戸三富、(富くじ) 本殿
「青木昆陽」1698-1789 農民を飢えから救った蘭学者、甘藷先生。42歳で幕臣に取り立てられ、飢饉対策として甘藷の普及に尽力した。
後に八代将軍吉宗の内示を受けオランダ語の研究を行い、蘭学隆盛の基礎を築いた。
青木昆陽の墓
次回は中目黒方面へ。
目黒駅の西口を出て、すぐ左手の歩道橋を渡ると、角のビルの裏手に目黒川に下る細くて急な坂がある。
この坂は行人坂といい、かつて目黒不動参詣の道としてにぎわった道である。
坂を下り始めて間もなく、左手に天台宗大円寺がある。
この寺は、江戸の初期、元和年間、1615年に湯殿山の行人、大海法印が建てた大日如来堂に始まると伝えられている。
山門を入るとまず目につくのが、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群である。初めてここを訪れる人はその数の多さに目を見張る。
釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。
大火犠牲者供養の羅漢像は、振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。
寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。
特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
石仏群はこの大火の犠牲者供養のために、石工が50年という歳月をかけて完成したといわれている。
一体一体をよく見ると穏やかにほほ笑むもの、ほおづえをついて考え込んでいるもの、泣き出しそうなものと、その表情は実にさまざまで、
個性あふれる石仏群を見ていると親しみがわいてくる。
この石仏群の手前、本堂横に顔や手が溶けたような、一体の異様な地蔵が立っている。
この地蔵は「とろけ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。
天台宗行人派松林山大円寺 本尊大日如来
境内に五百羅漢の石像 阿弥陀堂
JR目黒駅から行人坂を下って数分、昔は江戸の遊楽地でもあった東京・目黒の一等地に「雅叙園」は位置している。
創業は昭和初期、昭和の竜宮城とも呼ばれた絢爛豪華な歴史ある建物、雄雄しい滝が流れ落ちる日本庭園はまるで東京にいることを忘れてしまう優雅さがあった。
雅叙園「百段階段」は、2009に東京都の指定有形文化財に指定された、目黒雅叙園に現存する唯一の木造建築であり、
江戸文化の贅を受け継ぐ昭和の色彩空間としていたが、今は、近代建築に変わっている。
随一残されているのが、ケヤキの板材でつくられた99段の階段廊下を持つ「百段階段」、階段廊下の南側には7つの部屋が連なって、
各部屋には樹齢100年を超える床柱や、天井や欄間には当時屈指の著名な作家たちによって創り上げられた世界が描かれている、
昭和初期における美の競演と大工の高い技術力をみることができる。
左側目黒川と雅叙園ホテル
かむろ(禿)坂「江戸時代、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴が森で処刑され、なじみの遊女小紫は悲しんで自害した。
この時、帰りが遅い小紫を探しに来たお付のかむろが、帰り道でならず者に襲われ、逃げ道を失い桐ヶ谷の二つ池に身を投げたという。
これを哀れんだ近くの人が亡骸を傍らの丘に葬り、その後この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂をかむろ坂と呼ぶようになった」という。
「かむろ坂」は山手通りの東急目黒線不動前駅近くから、線路の北側を目黒線沿いに武蔵小山まで続く坂道。道の両側の桜並木がトンネルを作り、
見事な景観になっている。
泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば、「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとったとき、神人の夢をみた。
その後大師が青年になり、唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、それが少年のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。
大師は奇異に感じ、帰朝後さっそく不動尊像を彫刻し、これを目黒の地に安置した」とある。
目黒不動の仁王門
本尊の不動明王石像 江戸三富、(富くじ) 本殿
「青木昆陽」1698-1789 農民を飢えから救った蘭学者、甘藷先生。42歳で幕臣に取り立てられ、飢饉対策として甘藷の普及に尽力した。
後に八代将軍吉宗の内示を受けオランダ語の研究を行い、蘭学隆盛の基礎を築いた。
青木昆陽の墓
次回は中目黒方面へ。
友人と目黒不動と雅叙園は参りました。
東急池上線で目黒は便利でした。
不動尊の石仏は都内では大変珍しく印象に残っています。
雅叙園美術館も素晴らしいものでした。
東京は地震と原発事故で、全て自粛。
目黒どころではないと思われそうですが・・・。
そんななかでしたが富士山に行っており、
大雪であわてて帰ってきました。
コメント遅くなりました、