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小京都・足利寺巡り

2011-04-13 | 気まま旅
足利市は、県南西部に位置し、足尾山地南端の渡良瀬川北岸に町が広がっている。古代から交通の要地で、東山道の宿駅であった。
また「足利銘仙」でも知られている。足利織物の歴史は古く、奈良時代と云われている。
本格的に発展したのは、江戸に入ってからで隣接する桐生と競合したが独自に生産に取り組み、輸出向けに絹織物を出し注目され増産していった。
大正に入り西宮町に県の工業試験場が出来ている。ここから「足利銘仙」を登場させた。

室町幕府将軍 16代15人。(義植が再任)



臨済宗妙心寺派「善徳寺」は、足利氏8代目の直系で、室町幕府初代将軍の足利尊氏を開祖、一門の仏満禅師を開山として1368年に創建された名刹。

2002年から03年にかけて、本堂の解体修理が著名な宮大工小川三夫氏によって行われ、同時にご本尊の薬師如来像と、脇侍の日光・月光菩薩像の修理が行われた。
善徳寺に隣接する史跡・足利学校本堂修理後に新しく作られた山門解体修理され、善徳寺本堂須弥檀の配置工事と修理も行われた。
                         善徳寺 本殿
  


「樹覚寺」                       本殿
  


「法楽寺」足利氏三代目、義氏が,1249年に創建。墓所があり、15代目、義政の建立
  


主な足利氏

足利義満 1358-1408 日本国王と称した三代将軍。義詮の長男、南北朝合一し明との貿易、禅宗寺院の統制、文化指導。金閣寺を建てた。

足利義教 1394-1441 独裁的六代将軍。義満の子、嘉吉の乱 自分も殺されると赤松満祐に殺される。

足利義正 1436-90  東山文化を興す八代将軍 応仁の乱が起きる。宗教芸術に没頭、銀閣寺など次々と建てる。

足利義尚 1465-89  義政と日野富子の子九代将軍 跡継ぎ争いと、富子の干渉うるさく学問に。

足利義晴 1511-50  十二代将軍 一向一揆と法華一揆で京を明渡し近江へ。

幕府の終期に尽いては、1573年に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を
織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した。この間の約240年余りを室町時代と呼ぶ。尚、明徳の和約(1392年、北朝と
南朝の統一)迄を南北朝時代、明応の政変(1493年)までであろう。


正義山 法楽寺  1249年(建長元年)に、足利義氏によって建立。

両崖山を主峯として南端の機神山まで・・・北から南に連なる。高さ100メートル前後の山丘の一つ、鏡山の山ふところに
いだかれた山麓にあり、寺の山門は東面している。
即ち、西が高く、東が低くなる山麓の斜面に墓地が作られている。一段下がった境内の南部に鐘楼、東端に山門が建ち、
山門から石階を下りて直線状に参道がつづき、寺の入口の北隅に石標が建っている。

1860年(万延元年)に境内木小屋からの火災により、大門をのこし本堂、庫裡、土蔵までを消失。
1868年(明治元年)に再建 (住僧天忠和尚)、現在の本堂は1983年(昭和58年)に建立 (圓證洋雄和尚

京都銀閣寺を模した堂
  

足利義氏
鎌倉時代前期 生誕 1189年・死没 1255年。武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。

義氏は樺崎寺(かばさきでら)を創建した足利義兼の三男で、鑁阿寺(ばんなじ)の一山十二坊(鑁阿寺とその周囲の十二院からなる寺院経営の体制)を整備した人物。

足利義氏の墓




足利市の利性院では、閻魔大王の朱塗りの座像(約2m)が有名で、お堂の前に立つと、自動的に「えんまさま」の姿が照らし出される仕組み。
閻魔さまは地蔵菩薩の化身で農閑期にあたるやぶいり(1月・8月の16日)には閻魔様も休みをとり、地獄の門が開くと考えられている。
「閻魔大王祭」には、甘酒・湯茶の接待もある。

足利駅近くにある「利性院閻魔大魔王」
  

今回で東武伊勢崎線太田、桐生、足利は終了します。

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