syuの日記・気まま旅

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浅草サンバカーニバルへ

2013-09-03 | syu散歩
今日の浅草カ―二バル開場の「国際通り」には、当時ハイカラな「浅草12階建てタワー凌雲閣」があった。

関東大震災から90年(1923・9・1)、東京が災に包まれ、犠牲者十万五千人に上り、多くの人が焼死、水を求めて隅田川に集中したが、
そこは、災のトンネルでなった。

凌雲閣は、長岡の豪商、「福原庄七」基本設計者は「ウィリアム・K・バルトン(バートン)」。
凌雲閣株式会社が設立され、のちに社長として写真家で東京市議会議員であった「江崎礼二」が就任した。
東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは東京電燈株式会社の技師であった「藤岡市助」。
完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。
明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。

展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができたという。

1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。
1911年に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っているという。

1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、
福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死したと云う。

銅版の浅草12階建て凌雲閣


凌雲閣解体後の1932年、浅草・雷門一丁目交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」という、森下仁丹の広告塔が完成、こちらもランドマークとして人々に親しまれていた。
1942年に金属供出のため解体されたが戦後の1949年に再建。しかし、これも1986年に老朽化によって解体された。
現在その跡地にはコンビニエンスストアのファミリーマートが立地しており、壁面に、アサヒビールの看板が。

凌雲閣のあった所           雷門通り正面吾妻橋            国際通り
    

「国際劇場」浅草にあった劇場、幸龍寺の跡地に、劇場・映画館が存在したため、通常は地名を冠称し「浅草国際劇場」と呼ばれ、松竹直営劇場。
松竹歌劇団の晴れ舞台であった。 
劇場は1982年に閉鎖、その後取り壊され、跡地には現在、浅草ビューホテルが建って営業している。 
またかつて劇場が面していた都道462号線は、現在も一般に「国際通り」と呼ばれている。

雷門通り(パレード前)               国際通り  凌雲閣のあった所横菊水通り
    

浅草の夏のお祭り「浅草サンカーニバル」が、8月31日雷門通り中心に、今年32回目が披露された。
最高気温35度の猛暑日で、午後1時26チームがスタート、本場さながらの迫力ある踊りの行進であった。

暑い暑い午後2時頃


浅草松屋前の馬車通り、浅草寺二天門から吾妻橋を右折雷門通りに入り国際通りに向かうパレードで4700人が参加した。



本場ブラジルの本格ルンバでが先行し、各クラブの踊りと楽団が続いていた。


 
  

浅草の夏を締めくくる「浅草サンバカーニバル」は、昭和56年の開始以来賑やかなことが大好きな浅草に支えられてますます発展。
近頃は毎年50万人のお客様で賑わう一大イベントに成長し、ブラジルのリオデジャネイロのカーニバルをお手本とする出場チームの努力により、北半球最大のサンバカーニバルにしたいとハッスルしている。

静岡の新しいサンバチームとして、サンバを愛する日本人と日系ブラジル人で、2007年に結成され、現在約90名が活動している。
他のサンバチームとも積極的に交流し、パーカッション部隊の半数が浅草サンバカーニバルに参加。



年々全国から参加グループが増えているという。



  

パレード後、浅草3丁目のカラオケ喫茶「アッチ」で食事。

カラオケ数局と釜飯セットで、3000円。TEL 3871-0225 定休日木曜日 営業時間 AM11~

国際通りと言問い通りを少々三ノ輪方面に
    


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