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大森の貝塚~東海道一番宿の品川へ

2018-12-10 | syu散歩
大森貝塚遺跡公園から、池上通りを徒歩5分ほどの所に、品川歴史館がある。入場料100円、70才以上無料。

歴史館入口                          広々とした庭園
  

品川区が1985年に設立し運営する区立の歴史博物館。
原始からの品川の歴史、生活文化に関する資料を展示。史料の収集、保存や行政資料の保存も行っている。

地域史等の歴史を学ぶ場としての機能もあり、企画展や講演会、子供向けの講座、親子体験講座を随時開催している。
伝統的文化活動の場として、庭園に茶室、書院を併設し利用ができる。

「大井鹿島遺跡」が発見され、26軒に上る竪穴式住居跡群や土器、砥石などの生活用品が見つかっている。

常設展示 - 「大森貝塚とモース博士」、「東海道と品川宿」の2つを柱とし、原始古代から現在までを展示。ロビーのパソコンでは所蔵する「浮世絵」の検索が可能。

庭園は、四季折々の草木が配された芝生庭園。歴史館建設中に敷地内で発見された水琴窟が修復・再現されている。
                                                                       七福神                           品川宿本陣模型       
  

庭園
  
江戸時代の品川は東海道第1の宿場として、また江戸4宿の一つとして重要な役割を果たした。
歩行新宿、北品川宿、南品川宿と続く2k余りの街並みは、旅籠、水茶屋、を中心に様々な店が建ち並び活気を見せていた。

品川は江戸庶民の後楽、遊山の地でもあり、御殿山の桜、潮干狩りなど、浮世絵にも多く描かれています。

江戸時代の漁船                         品川宿に住んだ作家たち
       

戸越公園
    

西大井から徒歩で約30分、東急大井線「戸越公園」に出た。

戸越公園は、江戸時代前期(1662年)、肥後の国熊本藩主細川越中守重利が下屋敷として、この付近の地と共に拝領し、
(1671年)当時の武家屋敷を代表する数寄屋造りと庭園からなる戸越屋敷として整備した庭園の一部である。 
1932年三井家が現在の戸越小学校の一部と共に別邸の庭園部を旧荏原町役場に寄付した。 

                                薬医門
  

細川家には、細川 護熙氏がいる。陶芸家。参議院議員(3期)、大蔵政務次官、熊本県知事(第45・46代)、日本新党代表(初代)、
衆議院議員(2期)、内閣総理大臣(第79代)などを歴任した。

戸越は、関東大震災後宅地化され、東武池上線が開通し、戸越銀座商店街ができた。「銀座」の名は、戸越から。

   

戸越公園の隣に「国文学研究資料館跡」品川区豊町。資料館は使われておらず、立川市に移転した。
                   

「ジュウガツサクラ」資料館の庭園に咲いていた。10月なのに今咲いている?
秋から冬にかけて咲くコヒガンの中で八重咲きのものを‘十月桜’とする。10月13日頃から咲き始めることによる。
京都の「妙蓮寺」の御会式桜が有名。

      

「品川宿」
東京湾に面し、武蔵野台地を目黒川・立会川・の底流と湾埋め立て工業地帯、都南東の荏原郡大井・大崎合併して「品川区」に。
江戸時代の歌川豊春画の品川宿は、海岸に沿った宿場であった。
今は、京浜運河・高浜運河・天王洲運河と海岸通り・本なぎさ通り・旧東海道・第一京浜・京浜急行とJRが。
江戸日本橋から2里・東海道53次の第一番目の宿場になる。東は東京湾・西は桜の御殿山で、飯売り旅籠が軒を連ねていた。
歌川広重「東海道五十三次品川日出」朝焼けの海と船と八ッ山の裾に宿場と杭と大名行列のしんがりが。
「岡場所」遊廊は吉原だけであったが「江戸四宿ー品川と千住と新宿と板橋」に遊里があったという。(水茶屋の笠森お仙)
昭和初期まであった「相模屋」-幕末維新の舞台になった。
参勤交代の大名行列で、海の湾曲に沿って品川宿から高輪大木戸まで続いた東海道高輪風景が品川歴史館に。
20万石大名では、馬上15~20・足軽120人~130人・中間人足250人~300人と定めれれていた。

「御殿山」北品川の小高い丘、将軍休息場 現在は住宅に。品川は、江戸城に魚を納める浦が、猟師町として栄えた。
浅草海苔は、羽田ー品川。 品川天王祭夏祭り、カッパ祭りは6月・品川・荏原神社千貫神輿が練り歩き、神輿を海に担ぎ入れる「ナンタア・サアイ」の掛け声で。南品川の寺町を抜けると「鈴ヶ森刑場」があった。天一坊・八百屋お七が処刑された。
1853年ペリー来航後、湾警備のため海岸砲隊が置かれ「砲台」が。灯台は明治村に移転した。

                  品川は 膳の向ふに 安房上総


「土蔵相模跡」北品川にー江戸時代からの品川遊郭跡がある。飯盛旅籠「女のいる宿舎、いないのが平旅籠と呼んだ」
品川は、吉原に次ぐ数の飯盛女がいたと云う。

品川の 客 にんべん の有ると無し  「侍・寺(僧) ・ちつと あちらへと品川 縁の下 「下家」


           海道一の 遊君は 十匁「一両の60分の1」


品川神社裏の東海寺墓地には、沢庵禅僧・服部南郭「儒学」・本居内遠「国学」・井上勝「鉄道技師」
細川家墓地「熊本藩主」・奥平氏「豊前中津藩主」・妙国寺には、お富与三郎・室積徂春・品川寺には、江戸六地蔵の一

海晏寺には、松風や 骨になつたる 寒さかなー俳人白井鳥酔・岩倉具視・松平慶永「政治家」・梅若実、万三郎「能楽師」



川柳ー25と42で 混む渡し船「厄年に人が川崎大師へお参りのため」・前には大河 後ろから亭主 来る「鎌倉縁切り寺へ逃げる女房」
六郷渡し



江東区の霊巌寺・永代寺「梵鐘」
-パリ万博出品、後不明に、それがジュネーブのアリアナ美術館に、昭和5年返還され、
「鐘帰る、金返る」の縁起の良いものに。同じ鐘が庭園に。



「鈴ヶ森刑場」南大井立会川に
処刑ー天一坊・白井権八・白木屋お駒・八百屋のお七など。
歌舞伎の場面で、「お若けえの お待ちなせえやし・待てとおとどめなされしは・・・」幡随院長兵衛・白井権八の出会いの場面



立会川橋ー坂本龍馬像「浜川砲台」ー土佐藩下屋敷ー山内容堂「土佐藩主」の墓ー京急 鮫洲駅ー青物横丁ー「南品川宿」-「目黒川・北品川宿」
京急 新馬場駅ー「北品川宿」-「御殿山砲台」歩行新宿・京急 北品川駅ーJR品川駅・・・日本橋。

新撰組の旅籠屋「釜」の碑・幕末四賢侯「山内豊信(容堂)土佐藩主」の墓・坂本龍馬が黒船来襲の警備に通った浜川台場と続く。

               「宿場で一番のさかえた 東海道品川宿」


お台場ー品川・深川洲崎に海上 11基計画された、番外として陸続きの御殿山、4・7は工事中止、第1-3は8か月の工期で完成させている。





























大森海岸駅・第一京浜~鈴ヶ森刑場・大経寺から旧東海道ー立会川駅(私鉄京浜急行)・嶺雲寺・鮫洲駅八幡神社ー暗闇坂「旧仙台坂」・海雲寺
・青物横丁駅・品川寺・ジュネーウ”平和通りー南馬場通りー目黒川「品川橋」・新馬場駅・荏原神社・法禅寺・善福寺ー北品川駅
 八ッ山橋ー第一京浜(国道15号線)でJR品川駅へ。


















































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