syuの日記・気まま旅

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市川国府台ー江戸川を下る 13

2016-06-10 | 気まま旅
千葉県よ、もっともっと「千の葉・緑の町に」

市川市は、県の北西、川を隔てて江戸川区と接し、市名は、江戸川の下流、市場が開かれていた所からなどが諸説。
下総台地の緑地には、古代の遺跡が多い、縄文の中~後期で、最も古いのに「姥山貝塚」、我が国の初の集落遺跡と云われ、堀之内貝塚・曽谷貝塚・環状馬蹄形貝塚がある。
大化の改新により、国府台には「下総国国府」が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立し、政治と文化の中心地。
戦国時代は、「安房里見氏」と「小田原北条氏」の合戦場となり、北条氏の支配を得て江戸時代へ。「幕府直轄の緒領地、寺社領地」。
「下総中山」は、日蓮宗五大本山の一つで法華経寺の門前町。
「行徳付近」は、利根川水運の河港と成田参詣の拠点、昭和初期まで東京湾の最大塩田地帯。
                 下総台地


「第二次世界大戦」時は、軍の下士官養成機関の教導団が設置され、終戦まで兵舎に野砲兵連隊があった。国府台の桜並木は、その当時の老木巨木の桜木で知られていたが住宅・交通などで伐採されたが一部残され、当時を偲ばせている。

             下総台地がピンク色に


国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋
                「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」、、、。

又、芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えていた。
永井荷風や幸田露伴や谷崎潤一郎、慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年市川で波乱万丈の生活を、
戦前まで兵舎であった所には、東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の 単科大・千葉商大)がある。

                弘法寺-山号・真間山「日蓮宗」


「弘法寺」ー三宝尊と伏姫桜ー
奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされ、平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称した。
その後、天台宗に改宗し、鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗。

大檀那の「千葉胤貞」より寺領の寄進を受け、室町時代、山下に真間宿・市川両宿といわれる門前町が発展し、
徳川家康より朱印地30石を与えられる。
江戸時代、「徳川光圀」が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈られ、紅葉の名所として知られていた。
諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されていると云う。
明治時代、火災のため諸堂は焼失し、その後、再建され現在に至る。
境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜が有名。
小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

市川真間からの階段           一茶の句碑               仁王門
    

仁王門            鐘楼                         樹齢400年の伏姫桜
    

境内の桜          朱雀門と呼ばれる「赤門」右に里見竜神 堂   太刀大黒尊天
    

                    千葉商大校庭の桜(戦前の兵舎跡)


                   千葉商大校庭の桜並木(戦前の兵舎跡)
    

国府台は、源頼朝より下総の守護に任ぜられたのが「千葉氏」守護所が置かれ、(下総台地の西南端の位置と云う)。
戦国時代「太田道灌」により築城が。
                   千葉商大付近


                   国府台運動公園入口


                 東京医科歯科大学教養部


「安藤(歌川)広重」1797-1858-江戸八代洲河岸生まれ。
歌川豊国は、歌川豊春の門下生・役者絵が得意の門を叩いたが満員ー歌川豊広の門人、印象派西洋芸術に影響を受けている。
代表作ー東海道53次・60余州名所図会・江戸名所百景。

       歌川広重画「名所江戸百景・鴻の台利根川風景」、今の国府台付近。




「里見公園」ー市立公園ー
春の花見の名所 、面積8.2haと広い。
江戸川の流れを見下ろす高台、15世紀、太田道灌が仮陣を建設


「里見義弘」 1530-78  庶民の落首を重視した善政の南総の武将。
安房国の戦国大名・佐貫城主・上総国制圧後、下総国へ進出すべく、上杉扇谷定正の執事太田道灌が仮城を国府台に築城。後里見氏が城を築城する。
小田原北条二代目(早雲の子)北条氏綱が、(鎌倉時代の執権北条氏の名で改姓した)扇谷上杉朝興を破り武蔵国制圧し、1538年北条氏綱と激突、
足利古河公方・里見軍は大敗する。
上杉謙信、武田信玄と同盟を結びながら、一貫として北条氏を敵対したと云う。
1564年、北条三代目氏綱の長男(武蔵国日本三大夜戦で河越城を破る)とも戦っている。
最後は、里見氏は、講和している。(館山に北条海岸の名が残っている)

「里見義弘」は、領民を大事にした大名で、落書に自由に申し出て良いと云う法律・公認している。他に例が無い。
また、実際に、代官の福原信濃守を批判する狂歌を取り上げ解任させている。
義弘ほど領内を巡視した大名は珍しいと云う。人々の意見を取り入れ善政に生かした大名の姿勢を知ることができる。
また、大酒飲みで臓腑が破れ没したとある。

公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネル                     桜祭り
    

「北条軍の反撃」足利・里見軍は、一時勝利に気をよくし、里見義弘は、出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。
だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は、撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って
里見軍に夜襲をかけたのである。
酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したと云う。(第二次国府台の合戦から)

                      国府台城址の碑


「近年の再検証」で、合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。
6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなり、 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在すると云う。
戦後、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させている。
だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制し、三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するとある。
小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いは激しく、 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。
この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いが、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である。



第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。


                   公園内は、花見客で混雑


「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
        「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。

                   白秋の旧家

                                        夜泣き石
  

  

                  僅かに残る土塁・堀跡 郭跡
    

この2回の戦いで多くの将兵が多数討死にした。
今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。
江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。
夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。

「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場 里見軍は、5000人以上の戦死者が 
    
太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」

            里見公園から見る江戸川に


里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。
以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城している。

    

           市川真間川(坂川)江戸川と合流
    

「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸川へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。



「矢切りの渡し」ー船村徹作曲ー

      ついて逃げてよ、、、 ついておいでよ、、、夕暮れの雨が降る 矢切りの渡し

                     親の心に そむいてまでも 恋に生きたい ふたりですー

    

                 舟で渡れば、葛飾柴又


「矢切りの渡し」付近は、「国府台合戦」の戦場となった場所,この付近から国府台付近にかけて、伝説や史跡が多く伝わっている。
    

矢切りの渡し船で、    静かな江戸川を            柴又公園は、さくら祭り
    

「葛西清秀」 1161-1238 葛西氏初代当主 墓所ー四ツ木「西光寺」に。
父ー豊島清元・母ー秩父重弘の娘・妻ー畠山重能の娘、桓武平民の流れを汲む。源頼朝と歴戦。
頼朝が、平家打倒の兵を挙げ、千葉常胤氏軍と上総軍も加えた軍勢が隅田川まで進軍、そこに清元軍ともに葛西軍が参じている。隅田川から静岡富士川へと進軍する。葛西氏は、頼朝・頼家・実朝と仕えている。

江戸時代以前の渡良瀬川の流域全体をカバーする「葛西領・郡」は広く、渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川・太日河))となったので、現時点では江戸川(及びその後に成立した中川)の流域を占める郡といってよいと云う。
したがって、その範囲は南北に細長いものとなっている。 現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大地域。(葛飾郡総社は、船橋市西船五丁目にある葛飾神社)
1878年(明治11年)の郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、翌1879年に残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅した。

郡内に下河邊荘、下河邊野方荘、八幡荘、松戸荘、風早荘、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿俣荘、大結牧といった荘園が成立した。
この地域が広大であった事から中心線の太日川を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称する慣習が現れた。
近世、利根川東遷事業により、太日川が利根川下流になったこともあり、江戸時代初期の1683年に、太日川より西の地域を下総国から武蔵国へ編入した(この地域を「葛西」と呼ぶ場合もある)。しかし、同じ寛永年間に関宿(現野田市)・金杉(現松伏町)間の東側に新たな流路が開削され、
これが江戸川の本流となったために、この区間については、後も下総国葛飾郡が江戸川の両岸にまたがることになったと云う。
江戸時代、江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれ、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された(古河藩、関宿藩)。
初期には山崎(現野田市)や栗原(現船橋市)、藤心(ふじごころ。または相馬郡舟戸。ともに現柏市)に規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた。

近世までは、後の南葛飾郡域を指して葛西と呼んでいる。
「葛飾」都の北東部、武蔵野の東方の原野ー葛が茂っているー所からきていると云う。平安中期から葛西氏の領地で青戸に「葛西城」があった。
江戸期は幕府領・関東郡代士はいけに置かれていた。金町が中心で宿場町で「柴又」が帝釈天門前町として発展した。
産業は、水田・レンコン・堀切の花菖蒲・金町のネギが知られている。他に正月用注連飾りの製造が盛ん。
今は、玩具工場の中小企業が増えている。江戸時代、利根川の大工事で隅田川までを下総であったが葛西郡は武蔵国に編入している。

               柴又・映画「男はつらいよ」で有名に


                    柴又天釈天参道
    

「柴又帝釈天」    日蓮宗・経栄山ー題経寺  1631年日忠上人の開創
    

              本尊ー日蓮上人自刻の帝釈天板
    

             60日毎の「庚申大祭」は、大賑わい


          庚申信仰縁起の竹製「はじき猿」は、郷土玩具として人気


             「男はつらいよ」の舞台でお馴染みの山門


              本堂裏手 お祭りで大賑わい


「山本亭」
大正末期から昭和初期に作られたとされている。
浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年3月14日に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開された。

                 都選定歴史的建物「山本亭」
  

「柴又公園」
日本庭園のある「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、区の桜見物、観光名所の一つ になっている。
江戸川河川敷の広場は、レクリエーション・スポーツの場として開放。

            公園頂上は、哲学の川・江戸川が一望できる
  

  

次回は、市川橋から

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