兵庫県神戸に、東は大阪湾と京都府・西は岡山県・鳥取県に接し、南瀬戸内海・北が日本海に面している。南北両面海は兵庫県だけ。
日本標準時を示す統計135度「子午線」は、「明石市」
中国山地・播但山地・丹波高地・氷ノ山(1510m)・三室山(1358m)の1000m級も聳えるが全体は緩やかな丘陵山地。
瀬戸内海側には、淡路島・大阪湾・播磨湾、西部に六甲山地、その南麓が「神戸市」である。
神戸は、奈良・平安と日宋貿易で栄え、「行基」が築いた「摂播五泊」の一つ、神戸港西部。平安時代は、「福原遷都」、平清盛が修築した。
明・朝鮮・琉球等の貿易港、大阪廻船寄港として、役割を果たしている。
1931年JR高架「新三宮」・1905年阪神電鉄・1933年地下鉄乗り入れ・・阪急も高架乗り入れ・1933年そごう神戸店・商業機能活発に
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神戸駅から三宮へ。
三宮は、生田川下流西岸の神戸市中心の繁華街。三宮の地名は、生田神社・末社三宮神社にちなむと云う。
昭和6年JR三ノ宮駅・33年に阪神電鉄・36年阪急電鉄乗り入れている。
デパートでそごうと大丸が出来、両デパートを結ぶ三宮センター街地下街の販売合戦を思い出す。
1995年1月「阪神淡路大震災」の被害は大きい
官庁街・相生座・喜楽座・福原遊郭を結ぶ多聞通り・有馬通り、1873年県庁が元町に移転,「三宮」の繫栄は、元町を凌ぐ・1995年1・17大地震
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「生田神社」
神功皇后が、新羅遠征の帰途に建てたと伝わる。祭神ー稚日女尊を祀る。この神社の神戸(神社の経済を支える特定の戸)が市の地名になっている。
JR三宮北西の繁華街に鎮座
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境内には、古来からの多くの歌人が詠んだ「生田の森」・源平の古戦場跡で、能・人形浄瑠璃の題材にもされ、「えびらの海、敦盛萩」など旧跡が。
「梶原の井」
かがみの井とも云われ、源平生田の森の合戦の折、「梶原景季」がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる。
「梶原景季」平安・鎌倉の武将。景時の嫡男、源頼朝の巨従し、治承・寿永の乱・生田の森の戦いで活躍、鎌倉幕府の有力御家人、頼朝死後没落している。
神功皇后が新羅遠征の帰途に建てられたと伝わる
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生田の森には源平一ノ谷合戦の折、平家軍が平知盛を大将として陣を張り、源氏の範頼軍を迎え撃ちました。生田の森は生田川まで広がる大きな森であったといわれ、枕草子・平家物語・源平合戦など歴史の舞台となってきた。
春には生田祭神幸式が行われ,総勢1000人を越える時代行列、
神戸に春を告げるお祭りで、行列には、猿田彦神役を先頭に、源平合戦の際に活躍した源氏方の武将・梶原景季、獅子舞、子供御輿、お稚児さん、御輿)からなり、行列は、2kmにもなると云う。
稚日女尊を祀る
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「子日庵一草の句碑」 「神垣や又とをらせぬ梅の花」
子日庵一草は文化文政の俳人、岩手県和賀郡黒沢尻の人である。
諸国の神社仏閣名所旧跡を遍歴行脚し、終焉の地を摂津兵庫に求めて、1819年、兵庫の津、鶴路亭において89歳で没している。
句は、源平合戦、源氏の若武者「梶原源太景季」が咲き誇る梅の一枝を手に折って箙にさし、獅子奮迅の働きをした故事をふまえ、
「生田の森」は、神聖な神社の境内であるから二度と箙の梅は折らせないと詠んでいると云う。
神社の経済を支えた戸「神の戸」-地名の起源
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「兵庫県明石」
県南部「淡路島」に挟まれた明石海峡、潮流は、じそく9kmと云う。古くは、「赤石門」と呼ばれている。
海岸は、白砂青松の名勝でも知られ、真鯛・タコ・ノリ養殖も知られている。大阪湾西になり、「明岩海峡フエりー・播淡連絡汽船・内外船舶など
往来が激しい。
1998年完成した「明石海峡大橋」も加わり、飽きの来ない海岸。
潮流は、時速9kmと速い、古くは「赤石門」と呼び、両岸白砂青松が、
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「明石海峡大橋」
全長3,911m、中央支間1,991mで世界最長の吊り橋。
「ギネス世界記録」に認定。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3m、国内では東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス(300.0m)に次ぎ、横浜ランドマークタワー(296.3m、海抜は300mで同じ高さとなる)を超える高さの構造物。
建設費は約5,000億円。建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mであったが、阪神・淡路大震災による地盤のずれが発生し、全長が1m伸張。
淡路島内のみならず、本州と四国を結ぶ3本の本州四国連絡橋ルートの一つ「神戸淡路鳴門自動車道」として供用されており、交通量も本四架橋の橋の中では最も多く、四国と近畿、更には本州の各大都市間を結ぶ交通の要に。
源氏物語・万葉集・古今集に詠まれた「明石の浜」
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「粟島に 漕ぎ渡らむと 思へども 明石の門波 いまだ騒けり」-万葉集。
明石の門波は,明石海峡の波と云う。「粟島」は、淡路島と思えるが判らない。
一説では、淡路島にすると字余りに、無理して「粟島」と考えられる。明石から淡路島は明石海峡を挟んで近く、島は、良く見える位置にある。
淡路島に漕ぎ渡ろうと思っているが、明石海峡の波はまだ荒れていると詠んでいる。
明石原人・明石ゾウなど化石が出土
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「播磨の国風土記」では、「赤石」と記され、あかみがかった「土・赤磯」によると云う。海岸には、海食崖と明石ゾウの化石が出土し、「明石原人」
出土地としても知られている。
大化の改新では、「畿内の西端・赤石の櫛淵」と定め、山陽道の「明石駅家」もあった。
大蔵谷城・大蔵谷陣屋・大蔵砦・大蔵谷構「大蔵院」
臨済正宗・大蔵禅刹とある。
臨済正宗黄檗派 ・禅寺。本尊ー 観世音菩薩像、境内の祠には青面金剛の石仏が祀られていた。
1441年 赤松円心の孫、赤松祐尚、大蔵谷に陣を構えたが、居城を三木城に移すにあたり陣屋のあとを寺院にしたといわれている。
墓地に赤松祐尚夫妻の墓がある。
大蔵院は、先祖の菩提寺、
大蔵院
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室町時代に播磨の豪族「赤松満祐」は、
1441年に時の将軍「足利義教」を暗殺するという「嘉吉の乱」を起こし、赤松祐尚は、足利義教の近習として仕えていたという説もあるが、
嘉吉の乱では満祐に従い、室町幕府軍が赤松満祐の追討のために播磨国に、「細川氏、山名氏」をたてて赴いたために敗北し、同年降伏を拒んだ
満祐は、龍野にて自害。満祐の弟・赤松祐尚は赦免されるが、領地奪回のために再び挙兵し、
明石の大蔵谷に陣を張り、居城を三木城(赤松祐尚の没後に三木城主となる)に移すにあたって陣跡を寺院にしたのが「大蔵院」。
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赤松祐尚の子・則尚は満祐の自害後播磨の地を逃れて各地に潜伏し、御家再興のために赤松祐則らとともに挙兵するが、播磨守護であった
「山名宗全」によって破られ31歳で自害。
加西市の北条町は当時小谷城主であった赤松祐尚が開いた市場町で丹波、丹後への宿場町として栄えたと云う。
赤松氏大蔵谷城跡であった「大蔵院」は、赤松祐尚夫妻の墓が
「稲爪神社」大蔵町鎮座。
祭神ー大山祇命・面足命・惶根命・伊和都比売命・奥津比古命・奥津比売命・宇留命。
推古天皇の頃、三韓より鉄人が8千人を率い来襲した。
討伐を命じられた伊予国の小千益躬は、故郷の大山祇神社の祭神である大山祇神に祈ったところ、鉄人が明石に着いた時、稲妻とともに大山祇神が姿を現し、鉄人の唯一の弱点である足裏を射よと告げた。これに驚いた鉄人を益躬が矢で射殺した。
小千益躬は大山祇神に感謝し、大山祇神が現れた地に大山祇神社を勧請したことに始まると伝えられる。
古くは、「稲妻大明神」と呼ばれていたが、稲妻が転訛して「稲爪」となったと伝えられる。
稲爪神社
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「両馬川旧跡・碑」
寿永3年 1184年 一の谷の合戦に敗れた平家軍の逃走経路
一の谷の合戦で敗れた平清盛の弟、「平忠度」が源氏の武将、「岡部六弥太忠澄」と川をはさんで戦ったので「両馬川」と呼ばれるようになった。
平忠度1144-84 武将・歌人 忠盛の子、一ノ谷で討死、藤原俊成に歌の教えを感謝し、百余首の和歌の巻物を渡し、永い暇を告げ別れたと云う。
読人知らずとして一首を入れている「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」。
「岡部 忠澄」は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。
武蔵七党の猪俣党の庶流・岡部氏 の当主。事績については詳細に乏しいが、平家物語における、平忠度を討ち取ったエピソードで
認知度を得ている。
「保元の乱、平治の乱」は、源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。
源義朝の死後は故郷の埼玉岡部に戻っていたが、1180年に義朝の遺児「源頼朝」が挙兵すると、それに従うこととなる。
木曾義仲追討戦の後、「源義経」の指揮下に入り、1184年の「一ノ谷の戦い」では平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られたと云う。
古戦場の両馬川
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「休天神社」
大宰府へ行った「菅原道真公」が亡くなったということを聞いた明石宿駅長が、菅原道真公を祀る祠を903年に建てたのが休天神社の始まりといわれている。
江戸時代の1673年、「明石城主・松平信之」の手によって神社として祀られるようになったと云う。
菅原道真公が座って休んだといわれている「菅公踞石」が、大蔵院からここに移設された。
休天神社
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「柿本神社」小高い丘にある。
「万葉集」の歌人 柿本人麻呂を祀っている。和歌の神として歴代の皇室や庶民に崇敬され、人麻呂の歌碑がある。
水難・火災・の守り神、最近は、学問の神として参拝する人が増えていると云う。
「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも」柿本人麻呂公を祀る柿本神社。
小高い丘にある、「万葉集」歌人 柿本人麻呂を祀る 「柿本神社」
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柿本神社拝殿前にある石造狛犬、台座に宝暦4年 1754年 の銘が、市内の石造狛犬の中で一番古く最大の狛犬とう云う。
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柿本神社鳥居前の「茶店」。
店内に入りビックリ、眺望の素晴らしいこと。緑と天文科学館の塔が、昼食は、アナゴ天ぷら定食、コーヒー込みで千円は安い。
おかみさんへ、いろいろ、ご親切に、有難う御座いました、商売繁盛を。
人麻呂の歌碑が、 水難・火災の守り神で最近は学問の神としての参拝者が
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次回は、明石城へ。
明石焼きってどんなものですか?
続けて読んでくださいね。今度姫路城があります。楽しみに!