神奈川県愛川町に入る。町は、愛甲郡・中津川流域、丹沢山地東に広がる町である。地名は、中津川の別名、鮎川、愛川に。
西部の半原は、養蚕業・撚糸業が発達した所。ミシン糸の生産が多い。
「宮ヶ瀬ダム」が1996年完成で「糸の町」は水没している。戦前は、陸軍飛行場が、台地は平坦で現在、宅地化が進んでいる。
「八菅神社」は、山伏の修験場で知られる「仏乗山・八菅山」が近い。(ハイキングコース)
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関東88カ所霊場の 第62番札所 「児松山 華蔵院 慈眼寺」
本尊 阿弥陀如来 真言宗智山派の寺
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相模原市の北西端。
鎌倉往還の町田街道、相模湾へと注ぐ境川沿いに位置。
南の大門を目前にすると、樹齢450年とも言われる境内の大銀杏が。(市の保存樹木に指定)
明治の神仏分離まで五柱の神社の別当を勤めていた名 残で、牛頭天王懸佛の御神鏡を守護。
明治28年に近隣のもらい火で本堂などを焼失したが、平成9年に壇信徒の熱望により本堂、仁王門を造営。
541年前に秀慶和尚により開創という。
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「上原庚申塔」
1700年頃造立と思われる石仏、庚申塔が。
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「三増合戦場跡」-神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺 (戦国時代)
結果ー武田軍と北条軍の交戦で武田軍の勝利 。(武田信玄と 北条氏照・北条氏邦)
戦力ー武田軍・20,000 6,000〜20,000(諸説あり)・損害ー1,000余(北条五代記) 2,000余(諏訪家文書、武田信玄書状) 3,269(甲陽軍鑑)
1569年10月ー三増峠の戦いが
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武田信玄が小田原城攻めを行った際、相模原市内を進軍した。
武田勢の経路や日本最大規模の山岳戦として名高い「三増合戦」の激戦が。
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北条氏政本隊は到着前であったが、八王子城ー氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。
これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦、10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。
緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死に。
武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。
合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた北条氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかったと云う。
もし北条氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあったと云う。自軍の勝利を見た信玄は軍勢を
反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。
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「伝説」-合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。
武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。
しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。
これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。
同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという。
またこの地では、合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が。
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志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けている。
大将である浅利が戦死した左翼では、軍監であった「曽根昌世」が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。
緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利に、、、、、。後、北条は、駿河の今川・武田と「三国同盟」に。
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関東88ヶ所霊場の61番札所「清徳寺」ー真言宗大師派ー
谷合いにある。石段の参道を上ると静かな境内の中に入母屋造りの本堂が、本尊ー大日如来。
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相模随一の水子供養の寺、童水地蔵安置所。
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空海・弘法大師 774-837 真言宗開祖 四国修行、入唐し、嵯峨帝から高野山を賜る。京都東寺、真言密教の道場。
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次回は、厚木、飯山観音へ
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