syuの日記・気まま旅

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鶴見 総持寺 裕次郎の墓

2014-01-12 | 気まま旅
横浜中華料理と潮の香の湘南を歩きます。

鶴見川橋の周辺に江戸時代旅人が休息する立場(川崎宿ー横浜宿の間休憩場)があったと云う。そこで売り物が、「饅頭」。
「橋より此方は、米饅頭を売る家多く、この地の名産とする。鶴屋など、、、慶長の頃より相続せるといへり」「江戸名所図絵」にある。
しかし、「市場村明細帳」1803年には、「よね饅頭の起源は、恵比寿屋が売り出したのが始まり」だという。
その頃40軒を超え、1818年頃鶴見村、鶴屋・亀屋ー26屋が明治まで続いていたと云う。
鶴見川は、源を町田市に発しー緑区ー港北区ー鶴見区で東京湾にそそいでいる横浜市唯一の大河川である、昔から、いったん大水に慣れは、
決壊しやすく、江戸期から改修工事を続けているが大洪水を繰り返している。川崎から、その鶴見川を渡ると「JR 鶴見駅」、新橋・横浜間に鉄道が開通した明治5年に,鶴見駅も誕生している古い駅。また鶴見は、古代のロマンを秘めた町。
鶴見川河口や岸谷の第二京浜国道ぎわなどから約10万年前に生息していたと思われるナウマンゾウの
化石が出土している。また,下末吉宝泉寺付近からムカシジカの化石が発見されたと伝えられている。
鶴見にいつごろから人が住み始めたかは正確にはわからないが,発見された遺跡や貝塚などから判断して,
縄文時代の早期(約9000年前)にはすでに縄文人たちが住んでいたことが立証されている。
久しぶりの鶴見駅である。

明るいモダンな鶴見駅


鶴見と云えば、1862年の夏、武蔵国生麦村(現鶴見区生麦)でそれは起こる。
馬で川崎大師へ向かう英国人4名が行列をさえぎったと薩摩藩士に切りかかられ、内1名が死亡。  
翌年、英国艦隊は犯人引渡しと賠償金を求めて薩摩に向かい、薩英戦争が勃発。その頃長州藩も欧州連合艦隊と戦っている。
2つの戦いの後、攘夷をとなえていた薩摩・長州の2藩は軍備の近代化の必要性を感じ、逆に英国等の外国に接近し、明治維新へと発展しいく
東海道の一漁村で起こった英国人殺傷事件が、日本の歴史を大きく変えたと云う、後に「生麦事件」とよばれる大事件を思い出した。

「鶴見神社」の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。
古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。1920年に、「鶴見神社」と改めたと云う。

歴史ある鶴見神社、弥生時代の古墳~                          末社
    

1962年、境内の古木が倒れた際、その根元から、弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡が発見された。
これにより、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認。
江戸時代の国学者・黒川春村が「杉山神社神寿歌釋」で考証し、鎌倉時代より伝えられた神事芸能「田遊び」は、明治4年に絶えたが、昭和62年に再興されたと云う。

風格ある狛犬
     

境内地はかつて約5000坪に及び、鎌倉将軍・藤原頼経が1241年に参詣した際に奉納したと伝えられる欅の古木や富士塚(境内の奥に現存)のほか、大きな神木が茂っていたと云う。
この神木に関して、一つの伝承がある。江戸時代、その神木の中でも大きな檜が人々の信仰をあつめていた。
江戸の芝居小屋の棟木にするため、この檜の巨木を切り倒したところ、病人が出るなど奇怪なことが続いた。そこで、この檜を伐採した跡に、これに代わる木を植えたところ、鎮まったという。
                          拝殿


「曹洞宗寺院 成願寺」は、山号 医王山、。

寺は、建功寺二世守聞和尚(元和10年1624年寂)が開山となり、薬師堂の別当寺として、1575年に創建、
明治39年に、寺地を大本山總持寺移転建設地に献納して、大正元年に、移転した。

入口前の石塔                                 山門
    

金剛力士像の三門前に、「見返し坂の石標」・「 古い石標(大正13年に建てられたもの)」がある。

                   本堂(改修工事中)



「総持寺」鶴見二、山号 諸嶽山、、曹洞宗、本尊 釈迦如来、創建年ー伝・奈良時代・開基伝・行基


文化財ー紙本着色提婆達多像・絹本着色前田利家夫人像ほか(国の重要文化財)、 三松関(総門)・向唐門・香積台ほか(登録有形文化財)
                             向唐門


能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、「総持寺」の前身。
能登の「総持寺」は、1911年の寺基移転にともない「総持寺祖院」と改称。北陸の旅で紹介

1321年、 曹洞宗4世の瑩山紹瑾は、「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われ、同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、
寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院になる。
後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称。
住職を5つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの輪番制、1615年、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山。
1898年 火災で焼失する。1911年に、 現在地に移転。

永平寺派の「有道会」と並ぶ、「総和会」(総持寺派)の中心寺に。

                              山門
                    

敷地面積は約50万m²あり、横浜市鶴見区の広域避難場所の1つに指定されている。
境内には仏殿、大祖堂をはじめ多くの堂宇があり、鶴見大学などの学校施設もある。
本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きいのが特色であると云う。

                金剛力士
    

「道元」1200-1253 我が国曹洞宗も開祖13歳で出家し比叡山の登る。
建仁寺の明全に従い入宋し、曹洞禅を学び4年後帰国、京都深草に興聖寺を建立、延暦寺衆徒の迫害を受け、波多野義重に勧められて
越前に永平寺を建てて僧団を開設、「正法眼蔵」を書き続けた。病で京都で没した。
道元は、「普勧坐禅儀」に、坐禅の方法を細大もらさず述べて、「永平新規」でも食事の作法・日常の生活全て「禅」と結びつけると説く。
「正法眼蔵」は、23年間講述したもので日本思想史の一頂点と云う。

三宝院・観音像入口階段            大梵鐘                お堂・梅樹庵が
    

曹洞宗宗憲に、「本宗は、釈迦牟尼仏を本尊とし、高祖 承陽大師及び太祖常済大師を両祖とする」とある。
高祖承陽大師は、大本山永平寺のご開山・道元禅師である。
太祖常済大師とは、大本山総持寺のご開山 瑩山禅師。釈迦牟尼仏・両祖で三尊仏としてお祀りする。

                      平和救世観音像


「波多野氏」は、相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)を本拠としており、南波多野荘が重時の所領となった事からその被官となったと見られ
1221年の「承久の乱」では、右目に矢を受けながらも敵に矢を射返して奮戦したと云う。
重時やその子長時、時茂が六波羅探題を務めた時期には六波羅評定衆として彼らを補佐した。
京都新日吉神宮の小五月会では流鏑馬を担当している。
1247年、鶴岡八幡宮放生会で随兵を務めた際、同じく随兵を担当した三浦盛時と序列を巡って諍いを起こしている。
義重は、日本曹洞宗の開祖道元と早くから親交があり、深く帰依してその活動を援助し、地頭として所領を持っていた越前国志比荘に招聘し、土地を寄進して永平寺の建立に貢献した。
永平寺仏殿内に、「波多野義重像」が祀られている。

                       仏殿


「道元」京都での関係寺(京都の旅、参照)
建仁寺ー東山く、臨済宗大本山、1202年創建、山号東山、源頼家が寺域寄進し、栄西禅師が開山。
延暦寺ー最澄開基、788年一乗止観院草庵を建てたのが始まり、天台宗法華の教え、密教・禅・念仏も行う平安時代は、皇室・貴族の
尊崇を得て力を持っていた、天台宗の基礎を築いた。

興聖寺ー京都宇治市、道元中国から帰国の34歳、1233年に創建、山号円通山。

                       寺院内案内


「石原裕次郎」は、ここで眠る  1934-1987 (52歳没)、俳優・歌手、愛称 裕ちゃん

神戸・小樽・逗子に育ち、山下汽船勤務の石原潔氏の次男、長男が、芥川受賞作「太陽の季節」映画に、現衆議院、石原慎太郎氏、
プロデューサ水の江滝子に抜擢され、2作目「狂った果美」で北原三枝と共演し結婚。
1963年石原プロモーションを設立した。

墓碑に夫人の「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、
                               愛する者に永遠を、心の夢醒める事無く」と綴られていた。

                   墓地内に裕次郎の墓
    

「伽藍」
鎌倉時代に禅宗(臨済宗,曹洞宗)とともに宋から導入された寺院建築様式に禅宗様がある。
その特徴の一つに七堂伽藍の配置がある。それは,当時の臨済宗の巨福山建長寺(1253 年創建)の伽藍図を江戸時代(1603~1867)に書写した図には、南北を基本軸として一直線上に重要な堂宇を並べ,他の主要な堂宇をその基本軸に対して左右対称に置くという配置。
京都の「建仁寺」など。

神水舎                   大祖堂                       銅灯籠
    

禅宗寺院では,伽藍配置を人体に見立てることがある。たとえば,1246 年に創建された曹洞宗の吉祥山・永平寺の七堂伽藍では,法堂が頭,仏殿が心臓,僧堂が右手,大庫院が左手,東司が右脚,浴司が左脚,山門が腰部を表すと言われている。

僧堂への廊下                  三松閣                  天真閣
    

持行
1月」初詣・寒行托鉢、修行僧の街頭托鉢、高祖降誕会、道元禅師のご生誕日
2月」節分追儺式、涅槃攝心会、釈尊涅槃会、お釈迦さまのご命日、東日本大震災三回忌法要
3月」春の彼岸会、仏道精進の1週間
4月」夏安居制中、釈尊降誕会、お釈迦さまのご生誕日、報恩授戒会、檀信徒の皆さまの戒法修行
5月」夏五則行持、修行僧の特別行持
6月」伝光会攝心会、修行僧の集中坐禅と講義提唱
                  三松閣と天真閣、通路


次回は、横浜元町商店街・中華街へ。

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