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豊臣秀吉 築城「大阪城」

2014-10-03 | 気まま旅
「大阪(市)」
上野台地、沖積低地からなる大阪の地、奈良盆地・京都盆地・近江盆地など近畿地方主要部を流れる淀川・大和川と大阪湾・瀬戸内海交通の要地
古代から港湾都市として発展してきた。応神天皇の大隅宮・仁徳天皇の高津宮が置かれて。
中世は渡辺津、四天王寺門前町、上野台地北端「生玉庄大阪」に建立された「石山本願寺」。
「豊臣秀吉」が天下統一の拠点とした。          「大阪城・城下町建設」
     
城は、難波宮と石山本願寺の跡地に城郭とその周辺に大名屋敷、船場・天満・玉造に市街地に商業都市を集め移住していった。
ドン・ロドリゴ「日本見聞録」に、大阪の人口20万人と記している。

1983年(昭和58年) 大阪環状線の森ノ宮駅 - 京橋駅間に国鉄の駅として開業。大坂城築城400年祭り開催に合わせて開業した。


徳川幕府は、大坂冬の陣・夏の陣で、大阪城は壊滅させている。1619年大阪城代として「松平忠明」を配している。
幕府直轄地として、西船場・南船場「北・南・天満」の三組「大阪三郷町方組織が出来た。

道頓堀川・長堀川・江戸堀川・西横堀川・立売堀川・京町堀川・阿波堀川・堀江川等が掘られ町が整備され「大阪天下の台所」とよばれて、全国経済
の中心に、17世紀に入ると、諸藩の蔵屋敷が集中、米を中心に物資が入荷され、江戸に。
18世紀には人口42万人。
            城塞化した石山本願寺を1583年豊臣秀吉築城・1585年完成させている。


豊臣秀吉の命で、1583年築城工事、1585年完成。
二の丸・三の丸・惣櫓・四重の堀で石垣を巡らせた豪壮城郭であった。1615年 「夏の陣」で焼失したが、徳川幕府は、本丸・二の丸・天守閣を再建させ西国支配の拠点としている。天守閣は当初の三倍の規模。
1665年落雷で全焼している。
           二の丸・三の丸・惣櫓・四重の堀で石垣を巡らせた豪壮城郭であった。


現在の遺構は、徳川時代、高大な石垣・50mの堀・蛸石・巨石など。
                  1615年大坂夏の陣で焼失・徳川幕府再建
    

「豊臣秀吉」 1537-98   小田原北条を破り、天下人に。
「徳川家康」 1542-1616  関ケ原で天下人に。
「淀殿」   1567-1615  秀吉の側室・浅井長政の娘・母はお市の方・秀吉の子「鶴松」「秀頼」を生む、秀吉没後、後嗣の「秀頼」に従い
              大阪城に入る。豊臣家の実権を掌握した。
「豊臣秀頼」 1593-1615  大阪城主。徳川家康に実権を奪われ一大名に転落、自殺説と、織田有楽斉と加藤忠広が薩摩へ逃がしていたと云う説
              秀頼の遺児「国松」は、六条河原で斬られ、女児は「東慶寺」の尼僧となったと云う。  

                  天守閣は、豊臣時代の三倍の規模に拡大された
    

「噂」淀君と仲の良かったとされる「石田三成や大野治長」が噂されました。
そういう噂が流れたかといえば、秀頼が秀吉に似ていなかったからと云う。
現に当時でも小柄だった秀吉と違い、秀頼は大柄な体格に育っています。淀君の父である「浅井長政」は大柄であり、祖母の「市も」女性にしては
大柄。この二人は、秀頼にとっては祖父母に当る。

           重文ー大手門・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・金蔵・金明水井戸屋形など13棟。
    

「築城の名人・加藤清正」1562-1611肥後国の大名、朝鮮出兵先鋒、関ケ原で東軍
「虎退治」の逸話等、清正公は、武勇に優れた武将と築城や治水工事、新田開発にも手腕を発揮した政治家でもある。
熊本城・大坂城・名古屋城とともに、日本三名城、名古屋城も清正公の手によるものと云われている。
豊臣秀吉亡き後、豊臣家援助、秀頼を家康に対面させ急死している。毒殺説もある。

                高大な石垣と巾約50mに及ぶ濠
    

大阪城の立地条件は、
(1)地形の良いこと、(2)水源があること、(3)周囲の交通の便が良いことなどが挙げられる。
立地条件と、城の形態や規模とには深い関連があり、地形は、秀吉以前の石山本願寺時代に、すでに東西7町、南北5町(1町=約109m)の広大な地域を堀濠と塀で囲んだ城郭の原形ができていたといわれている。

                  各所に配された「蛸石」など巨石が、
  

運び出された土は、秀吉の時代にはおそらく新田開発の埋め立てなどに利用できたであろう。新田開発の延長とも考えられる北港の埋め立て地に利用。
地下水が地表面下2~3m,その際考えられるのが、深井戸工法により地下水位を下げたり、自然排水。
大坂城の堀底の高さは、排水される寝屋川水位より2~3m高く造られており、堀濠の掘削は、排水用溝を先行して掘削し、地下水を下げながら進める方法
空いて出来ると云う。
                   城の形が見事である
  

大坂城を築く際に用いた石は、野面石と呼ばれる直径60cm程度、長さ50~80cm程度の自然石が中心。
本丸石積みに必要な石の数は20万個にものぼると云う。
現在ではこれだけ多くの野面石の調達は不可能、瀬戸内海の犬島付近を石材産地と想定し、直径60cm、長さ1m、重さ500kg~1t級の切り出し石を水上輸送して、野面積み風に積んだと見られる。
                 本丸石積みに必要な石の数は20万個にものぼると云う。
    

「安土桃山時代」
秀吉が死去するまでに 二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。
天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された「大友宗麟」は、大坂城を三国無双と称えた。

築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。
1599年 秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執ったと云う。
            豊臣時代、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。
    

「大友 義鎮・ 宗麟」
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名、キリシタン大名。大友氏第21代当主。宗麟の法号で知られている。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏とともに幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争。
父は大友家第20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、周防大内氏の家督を継いだ大内義長と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。
一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、大友塩市丸、大友親貞など、子に大友義統(吉統)、親家、親盛など。

「真田幸村」 1567-1615  大阪城七将星の一人。昌行の次男、秀吉と小田原征伐に参加、秀頼の招きで大阪城へ、「夏の陣」で討死
茶臼山家康本陣に、二度迫った幸村。取り残された家康は、自害を考えたと云われている。

              城郭の隅にひっそりと「淀君並殉死者の供養塔が」
    

次回は、兵庫県赤穂市方面へ。

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