「源氏物語」の舞台、「万葉集」「古今集」に詠まれた「明石の浜」景勝地であったが、時代には逆らえないのか全てが今風に変わっていた。
駅南通り「魚の棚通り」で、アナゴ等の焼魚をタラフク食べたのを思い出した。
「明石城・喜春城」は、駅北口前にある。
1617年、大阪の陣で戦功のあった「小笠原忠真」が10万石を与えられて築城。
4つの櫓の2つ現存し、中堀と城郭中心部の石垣もほぼ完全に残されている。城跡一帯は、堀に噴水の県立明石公園になっていろいろ施設が整備。
重文に、坤櫓・巽櫓が指定されている。
「中部 幾次郎」 1866年ー1946年、明治・昭和初期の実業家。林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロの前身の一つ)創業者。貴族院議員。
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「小笠原 忠真」1596ー1667年、江戸時代初期の大名。
信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩初代藩主。
信濃松本藩初代藩主・小笠原秀政の次男。母は登久姫(松平信康の娘)。正室は姫路藩主・本多忠政の娘(徳川家康の養女)亀姫。
子に長安(長男)、長宣(次男)、忠雄(三男)、真方(四男)、坂牧忠増(五男)、長弘(六男)、宝光院(黒田光之正室)、嘉禰(水戸支流松平頼元正室)、鍋姫、千代姫、姫松。
養女に繁姫(蜂須賀忠英正室)。
弟に忠知(豊後杵築藩、三河吉田藩主)。
太鼓門跡を入ると右手に武蔵の庭園
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忠直は、徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗り、晩年に忠真と名を変えている。
1615年の「大坂夏の陣」で父と長兄・忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。
(忠脩未亡人の亀姫を正室に)後に播磨明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。前小倉藩主39万石の細川忠利は義兄弟である。
「島原の乱」の際には長崎守備、剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。
大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。
糠漬けを好み、小倉城入封の際にも、ぬか床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを奨励した影響で、現代に至るまで、旧城下の小倉では各家に代々受け継がれた「百年床」というぬか床があると云う。
1617年大阪の陣で戦功「小笠原忠真」10万石・築城、4つの櫓の内2つが現存、中堀と中央部の石垣が残されている。
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1633年 信濃国松本城より「松平康直(戸田氏)」が、7万石で入城、が、急死したため「松平光重」が城主となる。
しかし、松平光重も1639年 美濃国加納藩(加納城)に転封となると、
「大久保忠職」が7万石で入城した、が、1649年のわずか10年間で肥前国唐津藩(唐津城)に転封する。
その後、丹波国篠山城より「松平忠国」が7万石で入城、
その子「松平信之」と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、
1679年 大和国郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた
「本多政利」が6万石で入城する。しかし、領内を収める事ができず1682年 僅か3年後、苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封、その後改易に
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、
本多氏転封の後、越前家の「松平直明」が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となった。
最後の明石城主は、「松平直致」で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城。
一帯は、県立明石公園・重文「櫓」
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本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。
石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が
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本丸の南東端に築かれた三層の櫓。
桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりである。
巽櫓,南面-第一層の軒先に華麗な唐破風、第二層の軒先に柔らかな千鳥破風を据え、第三層の軒先を強い直線でおさめている。
東面- 第三層の妻に対して、第一層に千鳥破風を置き、第二層は直線としている。
西面- 東面のつくり方と変わらないが、第二層、第三層には窓がない。
北面- 城内向う面で第二層、第三層には西面と同じく窓がなく、第一層には入口がある。「白亜の巽と云われている」
坤櫓と共に重要文化財指定。
東北は、神戸市・西は、加古川市に接し、南は、明石海峡を淡路島を望める「播磨の国風土記」に「赤石」とある赤みかかった土「赤磯」
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1631年 三の丸下屋敷台所より出火、本丸にまで火が回り多聞に貯蔵してあった武具・馬具・鉄砲火薬類まですべて焼失したといわれている。
以後本丸の御殿は再建されず、三の丸内に屋敷を建て藩主の御殿として住まい、本丸には四隅に櫓を建て直し塀で繁いだとされている。
巽櫓・坤櫓の棟(破風)の方向は異なっている。
西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(明石港)とし,北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めている。
藩主の居館は本丸にあり3階建ての立派な建物で、部屋には名前や画風から長谷川等伯の弟子と考えられる長谷川等仁の手になる、襖絵「花鳥山水図」が飾られていた。
現存するのは、晩冬から春の前兆を描いた二曲屏風六隻・全12面だが、本来は夏から秋にかけての花鳥山水図が対で存在し、四季花鳥図を構成していたものと推定される。
櫓内に 櫓から見た景色
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「遺跡・人丸塚」説明板より
一、弘仁三年(八一二年)僧空海がここに楊柳寺を建てた
一、仁和のころ(八八○年のころ)住職覚証が柿本人麿公の夢のおつげで人麿公を祀った
一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた (兵庫県)
遺跡・人丸塚 新幹線明石駅方面
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「横山蜃楼」
明石の人、松瀬青々の弟子となり30才で倦鳥派の大家。
大正14年月刊俳句誌「漁火」を創刊門下誌智は全国に及び現在527号を数える盛大さである。
昭和20年3月28日61才で亡くなり朝顔光明寺に墓がある。
句碑 「鵙の声 屈するところなかりけり」。
横山蜃楼・句碑
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東ノ丸入口の石垣・公園内には、古木の樹木で覆われてい。
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「明石神社と明石城太鼓」
明石城太鼓明石城築城以来太鼓門に置かれ、時刻を知らせていた貴重な太鼓。
藩主が皮の張替修理をした墨書銘もあり、明石の文化史上に意義の深いもので、「明石の宝物」として大事にされている。
明石神社と明石城太鼓
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「上ノ山教会」
明治39年にアメリカからやってきた宣教師クーパーがプロテスタントの上ノ丸教会を。
会堂は、昭和55年に改修された。
正面に日時計が掲げられているのはとても珍しく、窓のステンドグラスはフランス製で西日を受けるように設計されていると云う。
ドイツには、「日時計に一日光が当たっている家には悪魔がよりつかない」ということわざがあるとのこと。
上ノ山教会
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「妙見社・本松寺」
日蓮宗「法栄山本松寺」、鎮守「妙見宮」がある。
本松寺は又の名を「谷の妙見」「萩の寺」とも呼ばれ正面に古びた石階段、巨石の御首題碑、山門と続く。
本道を正面に番神堂、納骨堂(もと鐘楼堂)、庫裏が並ぶ。
本松寺は、1596年に豊臣秀吉の家臣藤井与次兵衛(新右衛門)勝介が林崎の船上城下に建立し、当初は「本正寺」といい、審理院日甫聖人である。
1651年 松平忠国(明石藩主)の国印状には、「本正寺」に八石六斗と畑一反二畝を贈ったとあり、1686年には松平直明が「本松寺」に同高を贈った記録も
妙見社・本松寺 宮本武蔵の庭園が、
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「月照寺の八ッ房の梅が品川泉岳寺」
130有余年の時を越えて 赤穂浪士の伝説が昨年実現。
赤穂浪士が明石市人丸町の月照寺に残したとされる梅を、約三百年の時を経て主君、浅野内匠頭が眠る泉岳寺(東京都港区)に運ばれた。
11月に明石を出発し、約620kmの道のりを運び浪士が討ち入りを果たした12月に「泉岳寺」に到着させた。
日本南京玉すだれ協会(本部・神戸市中央区)理事長で八房流家元の八房梅香さん一同。「八房一門会」
月照寺
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寺は、811年 「空海」がかつて明石城のあった赤松山に創建した「湖南山楊柳寺」にはじまると伝えられる。
887年 覚証が鎮守社として人丸社を建て、寺号も月照寺と改めたという。
当初は真言宗の寺院であったが、1575年曹洞宗の僧安室が入寺して曹洞宗。
江戸時代に入り1617年 小笠原忠真が信濃国松本から播磨国明石に転封となって明石城が築城されることとなり、
1619年現在の場所へ移された。
月照寺の八ッ房
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「明石市立天文科学館」
東経135度の「子午線」の真上にある。
1960年高さ54mの塔「日本標準時の標識」になっている。ドイツ製の大型プラネタリウム・天体と宇宙・人工衛星模型などを展示している。
明石市天文科学館・燈の縦線が「子午線標識」を兼ねている。
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次回、姫路城へ。
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