syuの日記・気まま旅

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金時山・足柄竹之下

2017-07-11 | 富士山麓日記

「足柄城」
899年、坂東に群盗が横行し、貢納物もたびたび強奪されたため、太政官府が「足柄の関」を設けた。
その効果は著しく群盗は一年足らずで鎮圧され、翌年には関も廃され、その後平安期は緊急時に足柄の旧関が度々利用されたと云う。
しかし鎌倉期には、すでに関跡も定かではなく、1221年、に没した「飛鳥井雅光」の「足柄の関を読める歌」には、
「足柄の山の関守古は有もやしけん跡だにもなし」と詠われており、防塁等があった形跡はなかったと云う。
1083年、に奥州の豪族清原氏の内紛朝廷のため奥州に下向した陸奥守源義家が苦戦した際に、弟の新羅三郎(源)義光が援軍を派遣(後三年の役)した際に、義光は箱根の関に着陣している。
「足柄城」が築かれた時期は正確には不明だが、1555年、北条氏康が三田郷(厚木市)百姓に「足柄城」の普請の人足を出すよう命じた文書がある。
しかしこの前年の1554年、北条氏康・武田信玄・今川義元は「甲相駿三国同盟」を成立させており、この時期の新規築城は外交上憚られることであり、この文書は従来から存在した城の修復を命じたものと捉えられている。
築城の時期としては、1537年、今川義元が武田信虎と縁戚を結んだことに怒った北条氏綱が箱根を越えて河東一帯に出陣し、今川氏と争った
「河東一乱」の後と考えられている。
1568年に、甲相駿三国同盟が破綻すると、駿河深沢城をめぐって北条氏と武田氏が攻防を繰り広げ、「足柄城」は、1569年、から1571年にかけて
「石切衆十人」をはじめとした人足が集められ大規模な改修を受けたとある。
深沢城は、1571年、に武田氏により攻略され、守将の北条左衛門大夫綱成は「足柄城」に後退して在番したとある。
1582年頃には「足柄城」の出入りが厳しく制限され、全面的な通行禁止の状態にあったことが「足柄当番之事」に見える。
1587年、には北条氏光が城番に任ぜられ豊臣秀吉の東征に備え再度大規模な改修が行われた。
豊臣氏と北条氏の開戦直前の1590年、佐野城(唐沢山城)主の北条氏忠が足軽百名ほか鉄砲・弓・鑓隊を率いて入城したが、4月、山中越えの街道を守備する山中城が陥落すると氏忠は小田原城に退却し、依田大膳亮が守備していたが、徳川家康の将、井伊兵部少輔直政の一隊によって攻撃され、開城・退却し廃城となった。
                 JR御殿場線 「足柄」駅(1ホームの無人駅)


「箱根・竹ノ下の戦い」
建武の新政時代の1336年1月・建武2年12月に。
「足利尊氏」の呼びかけに応じた足利軍と、「後醍醐天皇」の宣旨を受けた「新田義貞」に、参集した軍勢との間で行われた合戦に。
後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。

                    現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。


「足利尊氏」 室町幕府創設 1305-58 下野の豪族「清和源氏」の嫡流、鎌倉幕府執権北条氏の専制が強まり、源氏再興を。
隠岐を脱出した「後醍醐天皇」を攻撃するため幕命で出陣したが・・・・尊氏は、弟直義を「成良親王ー後醍醐天皇の皇子」につけ、鎌倉へ
関東を押さえる一方、危険視する護良新王を失脚させた。・・・軍勢を率いる「北畠顕家」軍に敗れ九州へのがれた。
光厳上皇の院宣をうけて、態勢を立て直し東上入京して、上皇の弟「光明天皇」即位・建武式目を発布した。
尊氏は、愛する弟直義を殺し苦悩の中病死している。

「新田義貞」 1301-38 源氏の名族新田の嫡流、北条氏打倒の兵を挙げ、鎌倉へ。
建武政権で「武者所の頭人・長官」として重用されてが、「足利尊氏」との抗争で、敗れ討死を遂げた。
鎌倉攻略で「稲村ヶ崎で太刀を投げた」話は有名である。

                   鎌倉・竹ノ下の戦いが


「JR御殿場線」
神奈川県国府津~駿河小山ー「足柄」
ー御殿場ー南御殿場ー富士岡ー岩波ーー下土狩ー大岡ー沼津

                     足柄で下車(無人駅)


足柄峠・金太郎コースは、金太郎が産湯をつかったと伝えられる夕日の滝や金太郎の遊び石など、足柄山の金太郎伝説を訪ねながら金時山を目指す。
地蔵堂ー夕日の滝ー金時山 標高1213m、箱根外輪山最高峰- 箱根仙石原へ。



              まさかりかついだ金太郎像が(足柄駅前)


「鮎沢川」
富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野を南下、小田原市で相模湾へと注ぐ。山間部から平野部に入るときに流れをコントロールし平野の中央を流れ、耕地を潤すように文命堤(岩流瀬堤、大口堤)が建設された。
岩流瀬堤は、流れをいったん断崖に導き、大口堤は断崖からの流れを平野中央に導いている。
上流の御殿場市付近では、富士山のなだらかな裾野が広がり、流れが穏やかで護岸工事が施され、河川の上流といった雰囲気は乏しい。むしろ、中上流域の小山町から山北町にかけての県境付近の方が、谷が深く大きい岩や石が見られ、こちらのほうが渓流の趣きが感じられる。下流の足柄平野付近では川幅も広がり、周辺には水田や住宅地が多くなる。



   「酒匂川」は、静岡県および神奈川県を流れる二級河川で、静岡県内では「鮎沢川」と呼ばれる。




「常唱院」-法華宗本流の寺・山号 要名山
文永11年(1274年)立正大師日蓮が身延山久遠寺への入山の途中で宿泊。
弘安5年(1282年)身延山を下山し常陸国へ湯治に向かう日蓮が再び宿泊したことでも知られる。
日蓮が法華曼荼羅を図顕し授与したので、堂が建立され法華講が開かれ、1831年、蓮静寺(静岡県御殿場市中丸)23世の日宥がこの堂を寺に改め
「常唱院」とした。大正6年、山田日要が再興。昭和27年、火災で焼失。昭和32年現在の本堂と庫裏を再建。

日蓮の大田区の池上への道ー常唱院を発った日蓮は、弘安5年旧暦9月15日弘行寺(南足柄市)、16日要法寺(平塚市)、17日妙光寺(横浜市瀬谷区)、18日池上本門寺へ到着した。
                    常唱院の桜が知られている。








「足柄山の古道」

ー足柄山というは、四五日かねておそろしげにくらがりわたれり。
やうやう入り立つ麓のほどだに、空のけしきはかばかしくも見えず、えもいわず茂りわたりていとおそろしげなりー

これは千年ほど昔の平安時代に「菅原孝標」の娘が「更級日記」に記した足柄山の様子、上総の国司として任期を終えた孝標に連れられて上京の旅の途中での足柄山を十三歳の少女は、4.5日の道中で、麓のほうでさえも木々が茂り薄暗く、空もはっきりと見えず不気味で恐ろしげなところであったと。
足柄峠は、往古より西国からの関東への玄関口として知られ、「延喜式」で、横走駅(推定御殿場市または小山町)と坂本駅(推定南足柄市)の間には
峻険な足柄坂があったことがわかる。
古代の官道、また中世の鎌倉街道といわれた足柄越の道は、現在の足柄峠に残し、「更級日記」の作者が越えて行った「足柄山の道」は、どこを。



箱根乙女峠の由来ー乙女が17才になに、源蔵は持病が進んで寝たきりの日が多くなりました。
ある夜ふと気がつくと乙女がそっと床を抜け外へ出て行きます。近所へお針のけいこにでも行ったものとあまり気にもしないで おりましたが、次の日もまた次の日も夜中になるとそっと出かけます。 そのうちに村人の間に 乙女に男ができて毎晩通っているそうだ という、うわさが立ち、このことが源蔵の耳に伝わってきました。
ある夜のことです。源蔵が寝つかれないまま目を閉じていると、乙女がそっと家を出て行きます。寒い晩でしたが、数日来体の調子が快方に 向かい起きられるようになっていましたので、思いきって雪の足跡を たよりに娘の後を追いました。足跡は峠を越してまだ続いています。
それをたよりに峠を下りかけますと雪だるまの中に娘が倒れています。
すぐに助けたいと思いましたが、親に内緒で勝手なことをする罰だと横目で見ながら行く先を確かめたいと足跡をたどりました。
足跡は峠を下って竹の下の地蔵堂の前で止まり、そこから引き返していました。堂守りに尋ねたところ以外にも 3ケ月前から毎晩参拝に来る 娘があり、自分の命を縮めてもよいから父の病気を治して下さい。 と一心に祈っていたが今日が丁度100日の満願日になる。と教えて くれました。
事の一切が判った源蔵は、大急ぎで引き返し娘を抱き起こしましたが、既に冷たくなっていました。
源蔵は今さらのように自分の浅はかな考えを恥じて泣くばかりでした。 村人も伝えを聞いてこの峠を乙女峠と呼んで霊をなぐさめました とさ。

                 宝鏡寺門前の石仏地蔵


御厨地蔵横道第1番札所    「宝鏡寺地蔵尊」-曹洞宗ー


               仏像ー薬師如来・弁財尊天・百万遍の数珠等が

扁額の「足柄山」は伝空海  「本尊 延命地蔵尊」は聖徳太子作  (県文化財指定)


ー寺伝ー
天平19年の747年、新羅国の僧ー審祥安置開創。「地蔵院」と号す。文治中(1185~1190)竹之下孫八左衛門頼忠再興し「善光寺」と称す。
その後久しく頽廃。1344年、郷民力を合せ堂宇を今の地に移し、「宝鏡寺」と。
1502年、祝融に罹り、霊像を村の耕雲寺に移り、1521年、中興蜜堂秀厳禅師堂宇を再建、爾来曹洞宗となる。
本山 永平寺・総持寺。本寺 宝持院。末寺 円通寺 。

             山門  仁王像   石碑・墓碑等 鈴木正信筆子塚 が。


                 鐘楼(梵 鐘 旧梵鐘1742年(第二次世界大戦中供出),新梵鐘 昭和39年)


                       宝鏡寺 本堂