「富士山」
三浦半島~伊豆半島に相模湾・伊豆半島、狩野川、富士川の田子の浦を相模湾。
富士山には、富士宮口登山道・東海道、富士市・富士宮ー朝霧高原ー「本栖湖」-青木ヶ原、大室山ー「河口湖・西湖」-富士吉田、忍野八海「山中湖」
自衛隊北富士演習場ー吉田口登山道、御殿場の途中に「須走」がある。
鎌倉時代に源頼朝は、裾野で「富士の巻狩り」行っている。未開拓地域で、明治に入り、一部の軍演習場に利用され現在自衛隊が使っている。
西麓の富士宮は、遠つ原とも呼ばれていた。が、戦後に入り、自然林の伐採の破壊で地下水汚染・防災工事で「大沢崩れ」地形変化で富士の景観変化を進行させている。平成6年に世界遺産登録され、自然保護の方策が急務の課題と云う。
富士山は、本州中央部に位置し、東北日本弧・西南日本弧・伊豆小笠原弧の3弧が会合する地形構造的特異地点、裾野は広大の独立峰。
規模ー直径約38km・山麓周囲約153km・面積約900km2・体積約1397km2・中央噴火火口周囲約3.5km・深さ約220m。
山体は、3段階の活動により形成過程と考えられている。富士山は、万葉の昔から表現され「山部赤人ー天地の分かれし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を・・・」とたたえている。江戸時代には、葛飾北斎「富嶽36景」で、登山では7世紀後半修行者役小角達から始まっている。
最初の噴火は、「続日本紀」781年・1707年宝永噴火・864年貞観噴火で青木ヶ原を形成している。
富士山の水は、山体に与える降水量年間約22億tと推定されている。が、年々水位低下障害が、環境が変貌している。
富士山頂平均気温は、1月ー19.2c・8月5.9℃・高さ800m付近は、照葉樹林帯ーススキ草原・杉・檜、忍野には、ハリモミの純林が、
1600m付近までは夏広葉樹林帯が、北東斜面には、カラマツ樹林。5合目森林限界に達する。
「山中湖」は、山梨県南東部・富士山北東麓の湖。その形から臥牛湖とも云う。
富士山溶岩による堰き止め湖(5湖中東端で面積は最大・最浅)
「白鳥遊覧船一周35分ー旭日丘・逆さ富士・高松美術館。
面積6.8km2・周囲約14km
与謝野晶子ー富士の雲つねに流れて束の間も心おちいぬ山中の湖
世界遺産・富士箱根伊豆国立公園 夏の避暑中心地ーテニス村1500面ある。
「富士サファリパーク」
1966年(昭和41年)1月3日にオープン。
最初のレースイベントは3月に開催された、「アマチュアライダー」による2輪レースの「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。
この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めたと云う。
4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。
5月に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集めたと云う。
4輪の日本グランプリは1977年まで富士で開催され(1976年は鈴鹿開催)、1960年代は日産対トヨタのワークス対決で盛り上がり、1966年の「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」(通称:インディ富士200マイル)や1968・1969年の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)のような海外招待レースも企画されるなど、船橋サーキット(1967年閉鎖)・筑波サーキットと並んでモータースポーツの中心的な場所となった。
鎌倉街道国道の峠「籠坂峠」
富士北麓地域と駿東部を結ぶ要衝として利用され、東海道から甲斐国府へ至る官道である甲斐路の経路。
駿河国の横走駅(静岡県御殿場市)と加吉を結んだ。
中世には、「鎌倉街道の峠」となり、「吾妻鏡」承久3年の1221年、「加古坂」の名が見られる。
「吾妻鏡」によれば承久の乱の首謀者のひとりである「藤原光親」が加古坂で梟首されており、小山町側の途中には光親の塚があると云う。
国境であるため戦国時代には甲斐の武田氏と相模の後北条氏との係争地になり、大永6年(1526年)には富士裾野の梨木平において武田信虎と北条氏綱の合戦が行われている(勝山記)。
江戸時代には口留番所が設置される。また、葛飾北斎は、「冨嶽三十六景の甲州三嶌越」において篭坂峠からの富士山(裏冨士)を描いている。
道の駅 すばしり(富士山に一番近い駅)
東富士五湖道路・国道138号線沿いに(足湯もある)
150号線「ふじあざみライン」
須走ルートの登山口のひとつである須走口五合目にアクセスする自動車道。
陸上自衛隊富士駐屯地
三浦半島~伊豆半島に相模湾・伊豆半島、狩野川、富士川の田子の浦を相模湾。
富士山には、富士宮口登山道・東海道、富士市・富士宮ー朝霧高原ー「本栖湖」-青木ヶ原、大室山ー「河口湖・西湖」-富士吉田、忍野八海「山中湖」
自衛隊北富士演習場ー吉田口登山道、御殿場の途中に「須走」がある。
鎌倉時代に源頼朝は、裾野で「富士の巻狩り」行っている。未開拓地域で、明治に入り、一部の軍演習場に利用され現在自衛隊が使っている。
西麓の富士宮は、遠つ原とも呼ばれていた。が、戦後に入り、自然林の伐採の破壊で地下水汚染・防災工事で「大沢崩れ」地形変化で富士の景観変化を進行させている。平成6年に世界遺産登録され、自然保護の方策が急務の課題と云う。
富士山は、本州中央部に位置し、東北日本弧・西南日本弧・伊豆小笠原弧の3弧が会合する地形構造的特異地点、裾野は広大の独立峰。
規模ー直径約38km・山麓周囲約153km・面積約900km2・体積約1397km2・中央噴火火口周囲約3.5km・深さ約220m。
山体は、3段階の活動により形成過程と考えられている。富士山は、万葉の昔から表現され「山部赤人ー天地の分かれし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を・・・」とたたえている。江戸時代には、葛飾北斎「富嶽36景」で、登山では7世紀後半修行者役小角達から始まっている。
最初の噴火は、「続日本紀」781年・1707年宝永噴火・864年貞観噴火で青木ヶ原を形成している。
富士山の水は、山体に与える降水量年間約22億tと推定されている。が、年々水位低下障害が、環境が変貌している。
富士山頂平均気温は、1月ー19.2c・8月5.9℃・高さ800m付近は、照葉樹林帯ーススキ草原・杉・檜、忍野には、ハリモミの純林が、
1600m付近までは夏広葉樹林帯が、北東斜面には、カラマツ樹林。5合目森林限界に達する。
「山中湖」は、山梨県南東部・富士山北東麓の湖。その形から臥牛湖とも云う。
富士山溶岩による堰き止め湖(5湖中東端で面積は最大・最浅)
「白鳥遊覧船一周35分ー旭日丘・逆さ富士・高松美術館。
面積6.8km2・周囲約14km
与謝野晶子ー富士の雲つねに流れて束の間も心おちいぬ山中の湖
世界遺産・富士箱根伊豆国立公園 夏の避暑中心地ーテニス村1500面ある。
「富士サファリパーク」
1966年(昭和41年)1月3日にオープン。
最初のレースイベントは3月に開催された、「アマチュアライダー」による2輪レースの「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。
この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めたと云う。
4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。
5月に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集めたと云う。
4輪の日本グランプリは1977年まで富士で開催され(1976年は鈴鹿開催)、1960年代は日産対トヨタのワークス対決で盛り上がり、1966年の「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」(通称:インディ富士200マイル)や1968・1969年の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)のような海外招待レースも企画されるなど、船橋サーキット(1967年閉鎖)・筑波サーキットと並んでモータースポーツの中心的な場所となった。
鎌倉街道国道の峠「籠坂峠」
富士北麓地域と駿東部を結ぶ要衝として利用され、東海道から甲斐国府へ至る官道である甲斐路の経路。
駿河国の横走駅(静岡県御殿場市)と加吉を結んだ。
中世には、「鎌倉街道の峠」となり、「吾妻鏡」承久3年の1221年、「加古坂」の名が見られる。
「吾妻鏡」によれば承久の乱の首謀者のひとりである「藤原光親」が加古坂で梟首されており、小山町側の途中には光親の塚があると云う。
国境であるため戦国時代には甲斐の武田氏と相模の後北条氏との係争地になり、大永6年(1526年)には富士裾野の梨木平において武田信虎と北条氏綱の合戦が行われている(勝山記)。
江戸時代には口留番所が設置される。また、葛飾北斎は、「冨嶽三十六景の甲州三嶌越」において篭坂峠からの富士山(裏冨士)を描いている。
道の駅 すばしり(富士山に一番近い駅)
東富士五湖道路・国道138号線沿いに(足湯もある)
150号線「ふじあざみライン」
須走ルートの登山口のひとつである須走口五合目にアクセスする自動車道。
陸上自衛隊富士駐屯地