「須走登山道」
富士山東本宮富士浅間神社(東富士五湖道路・道の駅すばしり)-ふじあざみライン・旧馬返ー御室浅間神社跡ー2000m須走五合目(古御岳神社)
ー須走幻の滝・避難小屋(無人)「小富士(1979m)ー駐車場・車で行ける。
五合目~六合目ー2000mの五合目、大山祇命の古御岳神社がある。約一時間の登山で六合目「長田山荘」-「瀬戸屋」
この辺りは緑も多いシャクナゲ・ユリなどが。
7合目、大きな木は少ないコケモモのど草木が「太陽館」が。須走幻の滝が出現、秋になると紅葉する。3kmで砂走りに。
8合目、ここは標高3200m、満天の星を見ながら頂上へ、ここで吉田口登山道と合流する。
噴火口、直径700m・深さ250mのすり鉢形で岩肌赤黒の地肌と万年雪が斜面に
「山頂」では、山小屋で、宿泊や休憩、食事・お土産が、夏でも氷点下に、下界は天候次第で見渡せる。
駿河湾・伊豆半島・南アルプス・日光が・金明水、銀明水の泉が(井戸の跡と石碑がある)
「東口本宮冨士浅間神社」ー静岡県駿東郡小山町須走に鎮座。(旧社格は県社)
全国にある浅間神社の一社で、富士山須走口登山道の起点に。
正式名称は冨士浅間神社で、須走浅間神社とも、2013年の平成25年、富士山が世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された際、
構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。
明治維新後の国家神道の時代には、当初は村社の社格が定められたが、明治19年の1887年、県社に。
平成19年、御鎮座1200年の佳節を迎え、記念事業の一環として社務所2階には富士講や社宝等を展示する記念資料館が併設されている。
平成25年、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の一つとして登録、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
平安時代初頭、延暦21年の802年
富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行った。
それにより「同年四月初申の日」に噴火が収まったため、鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった「須走村(現・駿東郡小山町須走)」の宿場町
浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は、小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し、農業が壊滅的な打撃を受けると御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために1749年、に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、
彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められたと云う。
随神門
祭神ー木花咲耶姫命・大己貴命・彦火火出見命
本殿
「富士講」
石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚(自然の山を代用することもある)を築く。現在、江古田(東京都練馬区小竹町、江古田浅間神社)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区、小野照崎神社)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が「重要有形民俗文化財指定」。
富士講の御師(おし)の家の代表的な建物、角行が説いた信仰の指導者であり、同時に、富士講の講員に富士登山時の宿泊所を提供する役目を荷っている人である。閉山期には御師は江戸などの富士講をまわり、教えを説いた。夏になり富士の開山の時期となると、河口や吉田などにある御師の家に富士講の講員らが続々とやってくるので、宿を提供し、登山道についての情報や登山に必要な食料や装備も提供するなど、様々な世話をした。
狭義の「富士講」は江戸時代においては、吉田の御師による活動のみを指しており、吉田以外の川口・須走・須山などの御師の活動や導者との師檀関係は「富士講」には含まれず、かつそちらの方が一般的な形態であったとする指摘もある。
修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。
中部・近畿地方に分布し、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。
富士山への登山も行うが大峰山への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとると云う。
「鎌倉往還」
ー富士吉田ー山中湖ー籠坂峠ー富士浅間神社(須走)・陸上自衛隊富士学校ー御殿場ー乙女峠ー箱根ー小田原ー鎌倉へ。
鎌倉往還・国道138号線 旧道
富士山の湧き水