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大和城 信濃 諏訪下社の有力な社人大和氏の鎌倉街道甲州街道を見下ろす城郭

2023-11-08 | 歴史

大和(おわ)城は長野県諏訪郡下諏訪町高木と諏訪市大和の境界に位置します。諏訪 下社の有力な社人で武人だった大和氏の城郭で下社の領域の下諏訪の東側の守りを担っていたと伝わります。なお大和氏の居館は下諏訪の諏訪下社付近にあったとされます。今回の資料は 「信濃の山城と館 6」宮坂武男 著2013 などです。

大和城 諏訪上下社の争い、武田氏の侵攻など東からの脅威が多かったのに備えたか
 諏訪湖と北側から突き出した尾根の間を通り東から下諏訪に向かう鎌倉街道を抑える絶好の位置に大和城は築かれたようです。

大和城 鎌倉街道から大和城を見る 東から
 城趾の東側に車を停め、残存する鎌倉街道を西に向かって歩き大和城に向いました。途中の鎌倉街道から大和城が良く見えました。ということは大和城からもこちらがよく見えるということですね。

大和城 大手道の途中、尾根の途中から諏訪湖を見る 
 諏訪湖との間の狭い空間を通る街道を監視するのに適した立地だと実感しました。足元に街道が通っていて東の方向もよく見通せるので、侵入を食い止める役割を果たし、侵入者に攻撃を加えることが出来たのではないかと思いました。

大和城 比高165m 途中に耕作地の段々地形が多数残る
 資料によると、大和氏の居館は西の下諏訪の下社付近にあったと推定されているようですので、有事の際は鎌倉街道を使って大手道を登ったのではないかと想像しました。Ⅰ郭(主郭)南側には段曲輪状の平場が多数残されていましたが、後世に全山耕作地として利用されたようですので、城郭遺構との区別が難しいようです。

大和城 大手道途中の小祠a 南東から
 登城路の途中には二つの小祠が祀られていました。

大和城 Ⅰ郭下の石垣3 南東から
 Ⅰ郭の周囲は帯曲輪が取巻いていて、一部分に石垣が見られました。石垣の年代まではわかりませんでしたが、大手道と思われる通路付近に築かれていましたので城郭遺構の石垣ではないかと想定しましたがどうでしょう。

大和城 平場4からⅠ郭へ登る通路2 坂虎口かも
 この付近の地形は、城郭遺構をある程度残しているのではないかと思いました。資料では平場4からⅠ郭へ登る通路を不鮮明ではあるものの、坂虎口の可能性があり平場4が馬出しのようにも見えると踏み込んだ見解が述べられていました。

大和城 Ⅰ郭(主郭)西から 左右遠に土塁
 Ⅰ郭は土塁囲みの曲輪で、きれいに削平されていました。ここも耕作地としての利用があったかもしれませんが、往時は高い土塁が四周を囲み、南東部に坂虎口2が設けられていた姿を想像しました。

大和城 Ⅰ郭 東辺土塁 奥に北辺土塁が続く
 往時の土塁は根元を石積で固めた高い土塁だったかもしれませんが、現況は風化や耕作地化の為か、低くて輪郭が曖昧で失われた部分がある状態でした。

大和城 堀切ア 北から 右手にⅠ郭 見どころです
 Ⅰ郭の北東側の尾根からの侵入への備えはとても厳重でした。アキクウの4条の大小の堀切が尾根を断ち切るように設けられていました。中でも堀切アはもっとも規模の大きなものでした。

大和城 竪堀カ 南上から Ⅰ郭帯曲輪への回り込みに備えたか
 Ⅰ郭の北西下には帯曲輪と竪堀2条が設けられていました。竪堀は二段下の帯曲輪地形への侵入を考慮しているとするとこの帯曲輪状地形も城郭遺構と見てもよいかもしれませんね。

大和城 堀切キとクの断面 南端部  南から
 資料によると、堀切キとクは元々は小曲輪であった部分を、後に掘り切って守りを強化した可能性があり、堀切カとキも同じ意図があったのではないかとされていました。

大和城 堀切イ 南から
 北東尾根の堀切イは堀切アとキクを包み込むように北側に長く切れ落ちていました。

大和城 浅い堀切ウ 南から
 北東尾根を断ち切る堀切は、合計で6条ありましたが、時間の経過による風化があるとしても、堀切ウの現況は一番浅く不明瞭でした。 

大和城 堀切エ 北西から
 北西尾根の城域を区切る堀切は幅広ですが浅いものでした。さらに尾根を登ると大和城大城がありますが、今回の見学はここまでとしました。

大和城の大手道はキツイ登りで不明瞭な場所も多かったですが、Ⅰ郭周辺では何条もの堀切で尾根を断ち切った備えを見ることが出来て良かったです。