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日比沢城 遠江 遠江と三河国境の本坂峠越えの街道を扼する城郭 資料により城域が異なる

2022-07-22 | 歴史

日比沢城は静岡県浜松市北区三ケ日町日比沢にあります。遠州と三河の国境の本坂峠を越える主要な街道(古くは二見の道と呼ばれ後に姫街道と呼ばれるようになった)を扼する河岸段丘上にあり、現在も主郭にあたる城郭遺構が確認できますが、その城域は資料によって異なっています。日比沢後藤氏とその一族が街道沿いに集住して本坂峠を越えて侵入してくるであろう三河からの侵入に備えていたと思われます。
 今回の参考資料は (1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978  と (2)「今川氏の城郭と合戦」水野 茂 編著2019 などです。


日比沢城 姫街道はおおむね国道362号線沿いで、いくつもの居館跡が残る
 現在、本坂峠は車の通る本坂トンネルが設けられていますが、歩く道としての本坂峠越えのルートもハイク道として明確に残されていました。日比沢城は本坂峠から見ると、いくつもの居館の奥に築かれているように見え、重要な位置を占めていたと思われます。


日比沢城 本坂峠越えの歩く道はハイク道となって現在も明確に残る
 車の道が本坂峠の直下にトンネルで設けられましたが、歩く道はハイク道として今も辿ることが出来、いわゆる姫街道として362号線に沿って残されています。


日比沢城 河岸段丘上の、街道を見下ろす絶好の位置に築かれている
 資料(1)ではⅠ郭、Ⅱ郭と平場a及びbを日比沢城の城域としていますが、資料(2)ではⅠ郭、Ⅱ郭及びⅢ郭を城域としていました。平場a、bはⅠ郭との間に大きな谷を挟んでいますのでⅠ郭と一体の城域だったのか疑問が残りますね。一方、資料(2)ではa、bについて記述がなく城外と考えⅢ郭を城域に含めているようでした。明治の地図を見るとAの道はありますがBとCの道はないようなので車の道として後に敷設されたと思われます。そうしてみると道Aで区切られたⅢ郭は城外だったのかもしれないと想像しました。結局、日比沢城の城域はⅠ郭にⅡ郭が付随した構造だったのではないかと思いましたがどうでしょう。


日比沢城 歩く道Aは今も残る 車の道Bは後に敷設された
 Ⅱ郭には住宅が建ち、車の道CでⅡ郭の敷地内に入れるようになっていました。写真の道Aの部分は現在はほとんど使われていないように見えました。今は車の道Bがメインです。


日比沢城 道AはⅡ郭、Ⅲ郭の間を通る
 Ⅲ郭にも住宅が建っていて、車はⅢ郭には道Aを北側から入るようでした。


日比沢城 虎口①と翳土塁⑤ Ⅰ郭には二度折れて入る
 虎口①から直進でⅠ郭に入ることが出来ないように土塁⑤が設けられ、二度折れて入るようになっていました。


日比沢城 虎口② 東から 右に土塁④ 左に土塁③
 日比沢城のⅠ郭西辺には2か所の虎口があったとされます。虎口②は虎口①と比べて規模が大きいように見えますので、虎口②には厳重な門が構えられていたのかもしれません。


日比沢城 Ⅰ郭 内部を西から 土壇があったようだが?
 資料(1)では、Ⅰ郭に50m×50mの方形の殿舎の土壇が残るとされ、資料に掲載の図にも描かれていましたが、現地で確認することが出来ませんでした。資料(2)の縄張図には描かれていませんでしたので、何らかの改変があったのかもしれません。


日比沢城 Ⅰ郭の井戸⑦
 Ⅰ郭内部には井戸⑦がありました。素掘りの井戸で、水は見えませんでしたが井戸底は湿っているように見えました。


日比沢城 北辺土塁⑥ 西から 
 土塁⑥、土塁③ともに東側は途中までしかありませんでした。後世に失われたのか、もともとなかったのかは地表面からは判断できませんでしたが、土塁が無くてもよいほどの急な切岸がⅠ郭のかなりの部分を取り巻いていました。


日比沢城 平場a 今はミカン畑となっている
 Ⅰ郭の東側には街道から河岸段丘上への旧道があり、その付近の平場aとbが城郭遺構として資料(1)で図示されていましたので見学しました。現在はミカン畑として改変が進んでいましたので原形を想像するのも難しい状態でしたが、Ⅰ郭との間に谷地形があり、日比沢城と一体の曲輪と考えることは難しそうに思いました。

日比沢城の城域は資料によって異なっていましたが、Ⅰ郭とⅡ郭の城域は共通していました。城郭としての遺構はⅠ郭とⅡ郭で、付随した周辺の平場をどう認識するかの差がある可能性を感じました。日比沢城と本坂峠の間の屋敷地も含めてその関連性などを想像しながら見学出来て良かったです。