城と歴史歩きを楽しむ

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野場西城 野場東城 三河 「三河雑兵心得 壱」で主戦場の西城 所在が明らかになった東城

2022-08-03 | 歴史

野場城は愛知県額田郡幸田町大字野場あります。野場城は西城と東城がありますが、野場西城は大字野場字城にあり「「三河雑兵心得 壱」で描かれた三河一向一揆で夏目吉信が立て籠もったと伝わります。野場東城はその所在が曖昧でしたが近年になってその場所が特定されました。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994  (2)「三河の鈴木氏と山本氏 後篇」伊藤 宏著2007 などです。
 夏目氏と一向一揆の戦いは同じ幸田町内の六栗城で行われてという伝承もありますが、野場西城での戦いであったとする説が有力なようです。  ※六栗城は→こちら


野場西城と野場東城 今は消滅した菱池  往時は野場地区、六栗地区まで湖面が迫っていた。
 今は消滅した菱池ですが、往時の菱池の湖面は野場地区、六栗地区の足下まで湖面が迫っていたと考えられています。野場東城の位置は資料(1)でAの位置とされましたが、資料(2)で伊藤 宏さんの調査によって野場西城の東300mの位置にあったことが報告され、現在はこの位置とされています。


野場西城と野場東城 往時は菱池が城域足下まで迫っていた
 野場東城は東海道新幹線の工事で、遺構のほとんどが失われたようです。資料(2)によるとaには神明社が祀られていたが、遷座されたということで、bあたりに船着場があったという伝承もあるようです。赤川は菱池の干拓以降に設けられた川と思われますので、往時はこの位置に堀があり野場西城と野場東城の防御の役割があったのではないかと想像しましたがどうでしょう。c堀はその時の堀の想像図です。



野場西城 土塁が一部残り城跡の石柱が立つ 以前は案内板がここに立っていた  見どころです!
 資料(1)によると野場西城は地籍図で円形の土塁囲みの城址が確認できるとされます。現在は土塁の一部が残り、写真のように土塁の断面を確認できるのが見どころとなっています。



野場西城 残された土塁は一部分  高さ3m超 西から      ここも見どころ!
 残欠土塁は城域の西側にあり、付近に移設された案内板が立っていました。往時は土塁が周囲を取り巻き、今は赤川となった堀で守りを固め、夏目吉信や茂兵衛が籠城して深溝松平勢と戦ったのを「三河雑兵心得」を思い出し想像しながら見学しました。


野場西城 土塁付近に立つ案内板

 案内版にある野場西城の南側を通る中島から六栗へ通じる「浜道」は現在292号線となっていますが、小説では土呂本宗寺から六栗に向かう茂兵衛が通った道ですね。


野場西城 赤川越しに城域を見る  南から
 野場西城の東側は、現在は赤川となった堀で断ち切られ、三方を菱池で囲まれ、四周を土塁で防御を固めた城郭だったのではないかと想像して見学しました。現地で写真を写していると付近で作業をしていた軽トラの持ち主の方が「写真を映すのに邪魔なら軽トラを移動するよ」と声掛けをして下さいました。


野場西城 今は地元の農家さんの住宅が城址内にビッシリ建っている
 城内には往時を示す遺構はありませんが、資料によれば居住を目的とした屋敷地というよりも戦時に備えて立て籠もる為の場所だった可能性がありそうでした。東側の路地の入口には野場城への表示板が立っていました。帰りがけに表示板を写していると、通りかかったご婦人から「場所がわかりましたか?」と声をかけていただきました。


野場東城 新幹線でかなりの部分が消滅  右手の田地は菱池だったかも  東から  左に新幹線
 野場東城は幸田町大字野場字池端にあり、野場西城の約300m東付近でした。新幹線工事で分断されて消滅した部分が多そうでしたが、往時には菱池に面した船着き場があったと伝わる部分が残されていました。


野場東城 北から   かつて神明社が祀られていた辺りか 北から 右手奥に新幹線
 資料(2)によると「神明社は、かつて野場東城の北東の麦畑にあった」とありましたので、このあたりではないでしょうか。残存している城域が付近よりも高いのが確認できました。


以前、野場東城とされていた場所A(大字野場字米倉) 奥の新幹線手前の墓地付近 東から 手前に赤川
 この場所が資料(1)で野場東城とされていましたが、資料(2)で字池端が本来の野場東城の場所と確認されました。菱池の水面が迫る突き出した台地はたしかに字池端の東城と似た地形でした。赤川は往時はなかったと想像していますが、干拓が進んだ菱池では排水が難題だったとされますので、赤川も付近の水を集めて広田川から矢作古川へ流す役割だったのではないかと思います。

小説「三河雑兵心得 壱」井原忠政著 を読んで、久しぶりにジックリと六栗地区と野場地区を見学しました。これまで知らなかった資料などを確認し、いくつもの気付きがあり、地元の人達の気遣いにも触れることができた見学で良かったです。

※三河一向一揆の戦いで六栗の夏目氏を攻めた深溝松平の3代伊忠の子、4代家忠は「松平家忠日記」の家忠で「野場から船で菱池を渡って中島に行った」という意味の記述がありますが、通常は茂兵衛も通った「浜道」を使っていたようです。