浜地氏城は三重県伊賀市柘植町にあります。浜地氏は柘植地区の倉部を領した有力土豪で、浜地氏城を本城として周囲には平谷城・北谷東城・北谷西城・宮の前城が築かれていました。天正伊賀の乱には柏野城に立てこもったとされます。今回の参考資料は (1)「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976 (2)「日本城郭大系 第10巻」平井聖[ほか]編集1980 などです。※柏野城は→こちら
浜地氏城 付近には伊賀の有力土豪の城館が多数
伊賀は地域ごとに有力土豪が割拠し、織田信雄の伊賀侵攻時には結束して対抗しましたが第二次天正の乱で敗北し織田氏の侵攻を許しました。※福地氏城は→こちら 福地氏城館は→こちら
浜地氏城 主郭は自然地形を生かした大規模な土塁と堀で囲まれている
主郭(Ⅰ郭)の東側と北側には大規模な土塁と堀が残っていますが、南側と西側は高低差が10m近い切岸となっていました。切岸は後世の宅地造成によって切削されたように見えました。
浜地氏城 堀① 南から 右に土塁② 左に土塁③
薬師寺からaを登るとⅠ郭の東側の堀①がありました。土塁と堀の南端部は南側の自然地形と思われる法面で終わっていました。
浜地氏城 土塁② 北から 右に堀① 左に平場④
平場④は土塁の外側にあるので城の遺構ではなくて薬師寺の裏山に祀られていた天神社(明治時代に遷座)に関連した場所かもしれません。
浜地氏城 Ⅰ郭東辺の土塁③ 南から 左にⅠ郭
土塁③はⅠ郭の東辺から北側の土塁⑤へ続いていました。
浜地氏城 Ⅰ郭南東隅の土塁⑫ 南東から
土塁⑫は土塁③から続く土塁でした。Ⅰ郭の南辺の殆どは宅地造成で切削されたようですが、土塁⑫を見ると、Ⅰ郭南辺にも土塁があったかもしれないと想像しましたがどうでしょう。
浜地氏城 Ⅰ郭 南から 奥に土塁⑥ 現況は畑地と果樹園(栗)の跡
Ⅰ郭は耕作地や果樹園として利用されていたようで、東と北を土塁に囲まれた広い曲輪面が残されていました。
浜地氏城 Ⅰ郭西辺の切岸 南から 10m近くの高低差がある
Ⅰ郭の西辺と南辺は宅地造成で切削されたように見えますが、往時のⅠ郭の南側と西側に土塁が設けられていたかは不明です。高低差があるので土塁等が必要なかったかもしれないとも思いました。
浜地氏城 竪土塁状地形⑩ 南から 奥上にⅠ郭
竪土塁状地形⑩はⅠ郭の南側の削り残しのようにも見えました。後世にⅠ郭を利用するために削り残した地形かもしれませんね。
浜地氏城 Ⅰ郭北辺の土塁⑥ 5m近くの高さがある
Ⅰ郭は自然地形を大きく削平して造られていますが、北辺土塁⑥は写真ではブッシュに覆われていてよく見えませんが削り残した高い土塁でした。
浜地氏城 堀⑦ 南から 左に土塁⑤
堀⑦は自然地形の地山を大きく掘り込んでいました。写真ではハッキリしませんが堀底の途中には段差が設けられていました。
浜地氏城 堀⑧と土塁⑤ 右に平場⑨ 東から
自然地形の地山を掘り込んだ堀⑧と土塁の上面とは4m程の高低差がありました。背後の山が高いので、この方面に備えた堀と土塁と見えました。
浜地氏城 Ⅰ郭北辺土塁⑥ 西から 幅が狭い部分もある
土塁⑥は地山の削り残しのようですが、上面は往時の高さが保たれているようでした。幅の狭いところは法面が崩れたのかもしれないと思いましたがどうでしょう。
浜地氏城 堀⑧の西端部 西から
堀⑧の西端部付近は自然地形の広がりがあり、堀底は段差を伴った削平が行われていました。ヒョットすると後世の耕作地化による削平かもしれませんね。
浜地氏城 堀⑧の西下の石積⑬ 西から
堀⑧の西端部から少し下がったところには石積が見られました。この辺りは後世の耕作地による改変が行われた地形の可能性がありそうでした。
浜地氏城 地形⑪は大手か? 右に薬師寺 南から
地形⑪は取り残されたような地形で城郭遺構ではないかもしれません。建物跡?大手の入口? わずかに高い平面ですが、用途は不明でした。
浜地氏城は、山麓部に築かれた広い面積の主郭の高い切岸が目立つ大きな城郭でした。背後の山地のほうが高いので規模の大きな土塁と堀を設けて守りを固めたように見える遺構が見どころで、楽しく見学出来てよかったです。