城と歴史歩きを楽しむ

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山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

上野・中山城 立体地図にも明確に現れる彫り(堀)の深い遺構が見どころ

2020-11-17 | 歴史

中山城は群馬県吾妻郡高山村大字中山にあります。
 過日の東海古城研究会の一泊二日の特別見学会で見学しました。この見学会では箕輪城、白井城、沼田城、名胡桃城、岩櫃城なども訪れました。特別見学会は日帰りでは見学できない遠方の城館の見学が主ですので「せっかく来たのだから」ということで、なるべく多くの城址を見学したいという要望に沿って、やや駆け足気味ながら、著名な城址中心に訪れます。
 中山城は武蔵七党の一つ児玉党の阿佐美氏がこの地に入り、建保二年(1214)中山古城を築城し、のちに中山氏を名乗ったと考えられています。時は流れ天正年間になって北条氏が中山城を築き真田氏と城を取り合って攻防を繰り返したと伝わります。 今回の資料は見学会の当日資料、現地案内板などです。


中山城 西沢川と五領沢川に挟まれた台地に築かれている 中山古城は北東1.2㎞の山上にあった
 長野街道が中条地区で分岐し沼田に向かう主要な街道を扼する位置に築城された中山城は、立体地図で遺構がハッキリ確認できるほどの深い堀に囲まれた主郭などの地形が見どころでした。

  
中山城 現地案内板の縄張図と国土地理院地図をカシミール3Dで加工した3D地形
 3D地形で、ここまで鮮明に遺構が確認できるのは稀で、中山城の彫りの深さ(堀の深さ)がわかります。
三の丸と捨曲輪の間は堀切地形で区切られていますが、後世には切通の道として利用されていました。往時は堀だったかも知れませんね。捨曲輪はほとんど防御施設が備わっていませんので、戦時には放棄されるという意味で捨曲輪というのでしょう。三之丸、捨曲輪は後世の畑地としての利用で遺構の改変があったと思われます。


中山城 東側の地形 山下の田地は往時には深田だったかも
 台地に築城された中山城の東側は、急な切岸が防御の要になっていたようにみえました。現在、田地は圃場整備で水路が整っていますが、往時は東側を流れる西沢川で深田になっていたのではないかと想像しましたがどうでしょう。


中山城 捨曲輪と三の丸 中央に切通の道 東から
 捨曲輪は現在植林が行われていますが、畑地として利用されていた時期もあったようです。三の丸は現在も大半が畑地となっていました。


中山城 主郭(本丸)と西辺土塁  
 主郭の北、西、南には分厚い土塁が築かれ、土塁外側は深い堀となっていました。東側は急で高低差のある切岸があるためか土塁はなかった様です。


中山城 西辺土塁中間の城明神
 主郭の西辺土塁の中間には城明神が祀られていました(図2参照)。土塁を削って造営されているところを見ると、後世のものではないかと思いました。


中山城 本丸南側の堀と二の丸の 東下から
 中山城の見どころは本丸(主郭)の三方を囲む深い堀です。堀の土は主郭の土塁として積み上げられて堀底から土塁の天端までの高低差が大きな切岸を造り出しているのではないかと思いました。

図2や3D地形でもわかるように主郭北側にも北曲輪などの遺構がみられるようですが、今回の見学では時間の都合ですべての遺構の見学はできませんでした。機会があればもう一度訪れてゆっくり見学したい城址だと思いました。


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