城と歴史歩きを楽しむ

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三倉城 遠江 長大な竪堀 折れを伴う土橋など興味深い遺構がよく残る山城

2022-03-18 | 歴史

三倉城は静岡県周智郡森町三倉にあります。三倉城は今川氏の被官であった矢部氏が三倉に土着して三倉氏を名乗り三倉城の城代となったと伝わります。その後徳川家康がこの地域を攻略すると三倉氏は家康に従ったとされ、城は徳川期に改修されたと考えられています。
 今回の資料は(1)「今川氏の城郭と合戦」水野 茂 編著2019 と (2)「遠州三倉と許禰(きね)神社」現地パンフレット などです。


三倉城 大府川と中村川が三倉川となる合流点 主要街道の結節点の要衝に三倉城はある
 家康が春野の犬居城を攻め、川の増水・食料の欠乏等で攻めきれず「どうする 家康」となり撤退を始めた際に田能、大久保で奇襲を受け、ほうほうの体で三倉まで来て三倉氏に匿われ、そこから天方まで逃げ延びて九死に一生を得たとされます。資料(2)によると三倉地区には家康を助けて感謝されたと云う伝説が数多くつたえられているそうです。


三倉城 城道はAからだが分かりづらい 車を許禰(きね)神社に停め道Bをたどるのが良い
 三倉城の城道は、後世の山道として利用されたようで、一部に改変が見られますが、遺構の殆どは往時の姿を留めていますので、規模の大きな竪堀と堀切、折れを伴った土橋など見どころが多かったです。
 資料(2)によると、許禰神社は三倉氏の屋敷跡に造営・遷宮されたとありますので、往時の三倉城はいわゆる山上の詰城だったと思われます。


三倉城 道Aの道路からの入口 
 道Aが古くからの道の入口だったようですが、今は住宅の脇を抜ける狭い通路になっていますので、通り抜けるのが心配になりました。許禰神社が三倉氏の屋敷跡とすれば道Bも往時からの道かもしれませんね。


三倉城 Ⅴ郭はⅠ郭の東約150mにある 間の尾根筋に城郭遺構は殆ど見当たらず
 城道は後世の山仕事に道としても利用されてきたようで、明確に残っていました。資料(1)によると、往時はⅢ郭とⅣ郭は一体の曲輪で、後世の山道で開削されて分離したと記されていました。


三倉城 Ⅰ郭西側のⅡ郭  北から  左上にⅠ郭
 Ⅰ郭の西側には帯曲輪状にⅡ郭が取り巻いてⅠ郭の切岸を削り出していました。


三倉城 竪堀5 上から  規模が大きく山下まで切れ落ちている
 竪堀5は規模が大きく、Ⅰ郭の北側に西から回り込むのを防ぐ役割だったと思われます。雑草やブッシュがほとんど無く、山下まで見通せる竪堀で見応えあり!でした。


三倉城 Ⅰ郭北東隅の虎口地形9  
 城道はⅠ郭とⅢ・Ⅳ郭の間の堀切の堀底道を通ってから虎口9に入っていたと想像しました。虎口に至るまでには両側の曲輪上方からの攻撃にさらされる形だったのではないでしょうか。


三倉城 Ⅰ郭  東から 今は植林され、土塁などの目立った遺構は無い
 Ⅰ郭は居住性がなさそうな曲輪で、屋敷地は山下の許禰神社の場所で、ここは山上の詰城だったようです。Ⅰ郭の削平面の周囲に土塁などは見当たらず、守りは堀切と切岸だったように見えました。


三倉城 Ⅰ郭からⅢ・Ⅳ郭を見る 手前に堀切1  
 Ⅲ郭とⅣ郭の間には堀切地形2が有りましたが、資料(1)によると後世の山仕事の道ということでした。一見するといかにも堀切のようでした。右手のⅢ郭には小さな祠の跡がありました。


三倉城 土橋8 東から    土橋8の左右に堀切が明確に残る  見どころです!
 東の尾根筋からⅠ郭への侵入に対しては尾根を断ち切る堀切と竪堀3と4、Ⅲ・Ⅳ郭、堀切1が設けられ厳重な守りとなっていました。堀切3と4の間には折れを伴う土橋8がクッキリと残されていて見どころでした。写真奥に道2、Ⅲ・Ⅳ郭などが見えています。


三倉城 土橋8から堀切・竪堀3を見下ろす ここも見どころ!
 堀切・竪堀3は土橋8から堀切、竪堀と繋がって山下まで切れ落ちていて見どころでした。土橋は折れを伴っていて、後世の改変を受けていない往時の姿だと見ましたがどうでしょう。


三倉城 Ⅴ郭 西から
 Ⅴ郭は資料(1)によれば、家康がこの地域を奪い取ってから改修され、兵の駐屯地として拡張された曲輪と考えられるとしていました。面積は広いのですがⅠ郭のような厳重な防御態勢は取られていない地形でした。


三倉城 Ⅴ郭 右に南辺の低い土塁7 西から
 Ⅴ郭の南側は現況では低い土塁7があり法面に竪堀6が設けられ、あまり厳重ではないですが防御の意思を感じました。南側の谷筋からの侵入に対応した備えのようでした。

三倉城は遺構の残りがよく、三倉氏の屋敷跡の許禰神社や家康時代の改修とされる遺構なども興味深く見学でき良かったです。


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