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城と歴史歩きを楽しむ

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信濃・新野の城山と遠見原 信濃の南端を治めた関氏が、向方道を扼する拠点とした

2019-10-20 | 歴史

新野の山城は長野県阿南町新野網張の南に。遠見原は阿南町新野川尻にあります。
 現在は国道151号線が信州最南端の新野と愛知県の奥三河を結んでいますが、古くからこの地を治めた関氏のころにはこの道はなく新野から早木戸川沿いに向方(むかがた)を通り天竜川まで下って南下する道しかなく、ここに網を張って田島氏が通行を監視したとされ、網張の地名が今も残ります。151号線線は後に下条氏が作ったとされます。
 今回は宮坂武男氏著「信濃の山城と館6」(以下資料)を片手に出かけました。
実際に網を張ったかどうかはわ分かりませんが、新野の城山と遠見原の間を流れる早木戸川の両岸を抑えていたのだとおもいました。新野の城山の北麓には今も田島氏が居住しておられました。


新野の城山と遠見原 今は早木戸川に沿って418号が通るが、往時の道は 対岸を通っていたかもしれない
 通行の監視という役割を果たすためには、川尻橋辺りで早木戸川を左岸に渡っていたのではないかと想像しました。右岸の公民館辺りは道路が出来る前は崖が川に落ちていて道がなかったのではないかとおもいましたが確証はありません。


遠見原 新野一帯と川沿いの通行がよく見えて、監視には最適
 川尻橋からは、樹木がなければ遠見原が丸見えだったと思います、逆に遠見原から見下ろせば丸見えだったでしょうね。


遠見原 今は車の道C ができたが、歩く道も残Bも残されている 建物は奥の住宅辺りにあったか
 現在遺構は残されていないので資料でも想像の域を出ないようですが、およそこの辺りということです。


遠見原 旧道が残りいい雰囲気
 今では使われなくなった道と思われますが、歩く道が残っていました。写真の右手上に住宅があります。


新野の城山 図のAからエィヤッ!と登る。資料ではA’の道が楽となっている
 Aから登ると大きな堀切に入ります。資料では自然の堀となっているので、自然地形を利用したということですね。登りきると細尾根になっていました。


新野の城山 図の1 尾根の先端地形を加工した低い切岸がある。いかにも物見台という遺構だ
 1は新野の城山の西端部にあり、細尾根で主郭方面とつながっていました。樹木がなければ早木戸川と対岸の物見原も丸見えでしょう。写真奥に写る大きな松の木が1の目印になっている。

 
新野の城山 1~4の尾根には南条もの堀切がある。
 多少の大小はありましたが、何条もの堀切が尾根を断ち切っていました。現在は風化が進み浅い堀状地形になっていますが、往時はどのようなものだったか興味が湧きました。


新野の城山 地形は全体的に滑らか。 4の頂上付近に氏神が祀られている
 新野の城山は風化が進んだばかりでなく、もともと厳しい戦いを想定していなかったのかもしれません。資料で曲輪遺構とされる2、3、4の形状は緩やかなものでした。堀が浅いのも、風化によるよりも元々浅かったのかもしれないと思いました。

信濃最南部、三河最深部の接点になっている新野峠を通る151号線。この道がなかった時には相互の交流がなかったようですが、道が出来た途端に武田軍が南下してきたようで、住民は便利になったよりも迷惑だったのではないでしょうか。

新野の城山と物見原は、遺構の面白さというよりも、その果たした役割を考えて楽しむことが出来ました。

 


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