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岩略寺城 三河 その1 愛知県下最大級で興味深い残りの良い遺構がてんこ盛りの山城

2021-12-18 | 歴史

岩略寺城は愛知県豊川市長沢町にあります。2021/12/12(日)に東海古城研究会の月例見学会で岩略寺城を訪れました。長沢地区には岩略寺城、長沢城、登屋ケ根城など7ヶ城があったとも5ヶ城があったとも伝わります。岩略寺城は東海道を挟み込むように長沢城と一体の城郭だったとも言われますが、諸説があり詳しい歴史は明確ではないようです。また長沢地区を統治したという長沢松平氏の伝承も、後の神君家康公とのつながりを意識して誇張、脚色された部分がありそうです。    ※長沢松平氏の異説は→こちら


岩略寺城  東海古城研究会 見学会の当日資料より
 歴史に登場する「長沢城」は登屋ケ根城、長沢城、岩略寺城のいずれを指すのか諸説があり、明確になっていないようです。今回の参考資料は (1)見学会当日資料  (2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997  (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010と現地案内板などです。


岩略寺城 見学会ではアの猪垣沿いの道を登った   帰りは林道を歩いて下る
 岩略寺城の周囲には害獣フェンスが張り巡らされています。唯一、林道の害獣ゲートから入れますのでゲートを開け閉めして道アを登って見学しました。道ア、F、Kとたどりましたが一部には這って登るような急坂がありました。
 道aは従来大手道とされていた城道で地元ではオカゴミチと呼ばれているようです。かなりの部分が失われていますので想像で加筆しました。


岩略寺城 猪垣沿いの道Fを登る
 岩略寺城は林道から車でも登れますが、山城の醍醐味はやはりこの道を息を切らして登ることで味わえるのではないかと思います。道F沿いには石垣の積まれた山畑が何段もあり、一部は城郭遺構かもしれないと思えるような地形がありますが、主郭まで直接つながるので道Fは城郭遺構ではないとされます。


岩略寺城 案内板の縄張図  林道を登り切った広場に立っている
 林道で登ると「現在地」と記されている場所に案内板があります。ここには大きな堀切が有ったようですが林道造成で埋め立てられて広場になりその痕跡を探すことも困難でした。


岩略寺城 道Kは竪堀かも
 猪垣沿いの道Fは道沿いの後世の農耕地との関係が考えられますが、城域に入ってからの道Kは石垣もなく竪堀状の這って登るような急角度の地形ですので堀切Eとセットになった竪堀でこの方面の守りの施設だったと考えられそうでした。


岩略寺城 堀切E 南西から
 堀切Eは西尾根を断ち切る堀切でした。岩略寺城には堀切E、堀切C、堀切Dの大きな堀切が三条あり、西、東、南の尾根筋を断ち切る役割を果たしていました。


岩略寺城 土坑① 果たして井戸か、それとも・・・
 岩略寺城には井戸と称される大きな土坑が5ケ所あります。(1)見学会資料によれば岩略寺城の地山は、どこを掘っても水は出ないし水を貯められない地層と言われ、井戸以外にも様々な穴の目的が考えられ、数種類の見解が示されているようです。今回の見学会でも参加者から、これまでになかった「大木が根こそぎ倒れた跡」という意見が出て、一同、そうかも知れないと思いました。
 5ケ所の土坑のすべてが同じ成り立ちとは説明できないかもしれませんが、いくつかの土坑は説明できるかもしれませんね。


岩略寺城 城道aは大手道とされてきたが異論が有る  見どころです!
 城道aは三回折れる筋違い虎口Bで城域に入ります。城郭の入り口にふさわしい遺構ですので、これまで城道aが大手道とされてきましたが資料(3)で石川浩治さんが向屋敷に通じる東尾根の城道bが大手道だった可能性が濃厚だとされました。向屋敷から城域への道は害獣フェンスで通行不能となっているため、新しい見方として興味深いのですが確認が難しい状態となっています。


岩略寺城 土塁の有る曲輪V 虎口Bとセットで道aからの侵入に厳重に備える
 城道aからの侵入に対しては筋違い虎口Bで阻止する構えですが、曲輪Ⅴの西辺には土塁が設けられていて虎口Bからの侵入を上から攻撃できるようになっていました。土塁は風化で低くなっていましたが往時は身隠しができる程度の高さがあったのではないでしょうか。虎口南上にも平場があり、この方向からも攻撃が可能だったと想像しました。


岩略寺城 腰曲輪f 右手に曲輪Vの切岸
 曲輪Vの東下には腰曲輪fが設けられていて曲輪Vの高くて急な切岸を造り出したいました。曲輪Vがとても重要なポイントだったのがわかるような備えでした。曲輪Vから北西に下る尾根には平場や段差がところどころにありますが、ほぼ自然地形のようでした。


岩略寺城 山下の向屋敷 見事な石垣と平場が残る
 見学会では訪れませんでしたが、別の機会に見学すると山下の向屋敷にはいかにも屋敷跡と見える石垣、平場、井戸などがありました。屋敷地は広い平坦地ですので後世に畑地として利用していたと思われます。岩略寺城の城主は長沢城に住んだとも言われますので、上級家臣の屋敷地だったのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。ここからの城道が大手道だったということが十分に考えられる地形でした。


岩略寺城 腰曲輪dの南辺土塁
 岩略寺城には40以上の曲輪があるとされます。曲輪に土塁が見られない遺構も多いのですが、腰曲輪dには土塁が設けられていました。南曲輪eと西下の堀底道を見下ろす位置に有る腰曲輪dはこの方面からの侵入に対して強力な備えだったのではないでしょうか。


岩略寺城 腰曲輪bの三日月堀 左手にⅥ郭の急な切岸  見どころです!
 三日月堀と言うと武田の馬出しが有名ですがこの三日月堀は腰曲輪bを見下ろす位置にあるⅥ郭の下にあり、Ⅵ郭の切岸の高さと角度を稼ぐために掘られた堀のようです。確かにⅥ郭は主郭から一段下がった位置に設けられているので三日月堀の役割が理解できました。

岩略寺城は残りの良い遺構がてんこ盛りでしたので、その2 以降で主郭や土坑、大手道と言われる城道bなどの遺構を取り上げてみたいと思います。