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三河・岩略寺城 その3 遺構の残りは良いが謎の多い県下最大級の山城を見学する

2021-12-26 | 歴史

岩略寺城は愛知県豊川市長沢町にあります。その1、その2に続いて今回は その3です。
 今回の参考資料も (1)見学会当日資料  (2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997  (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010と 現地案内板などです。
 その2までで、謎の多い土坑5か所を確認し、本曲輪に到着しました。その3では近年大手道と言われる城道等を見学したいと思います。  ※その1は→こちら その2は→こちら


岩略寺城 近年、大手道と言われる様になった城道b  道は屋敷地(向屋敷)に下る
 従来は、城道aが大手道とされてきましたが、資料(3)で石川浩治さんが東尾根を通る城道bが山下の屋敷地(向屋敷)とつながっていることから、bが大手道だったと考えられると述べておられます。
  ※向屋敷の写真は、その1に掲載してあります。


岩略寺城 東尾根の大手道b   東から
 東尾根に城道の踏跡は明確には残っていませんでしたが、尾根筋を通る城道があったと推測できました。尾根から向屋敷に下る城道は、途中に害獣フェンスが厳重に設けられていて近年は通行不能となっているために、今は踏跡も消滅して道をたどることは出来なくなっています。



岩略寺城 40箇所以上の曲輪が在ったとされるが、明確に残るものだけでも30箇所以上
 大手道はⅢ郭北下を通り、Ⅳ郭東下の帯曲輪で大きく回り込んで東曲輪の南下、二の曲輪、本曲輪の東下を通って本曲輪の桝形虎口Aに至ります。侵入者はこの間ズッと曲輪の上から攻撃を受け続ける厳重な守りの備えになっています。


岩略寺城 Ⅲ郭北側の切岸 下端部に大手道bが通る  西から
 Ⅲ郭北側の切岸の高低差は大きく角度も急で往時の姿をとどめていると思われました。Ⅲ郭の上から大手道を見下ろしての攻撃は強力で、Ⅲ郭には土塁の必要がなかったのではないでしょうか。


岩略寺城 堀切C 南から 左上にⅢ郭
 Ⅲ郭の東側の尾根は大きく掘り切った堀切C が設けられて東尾根からの侵入を阻止する構えになっていました。先端部の平場gの周辺には後世の林道の跡が残っていて、かなりの改変がなされていましたので原形はわかりづらくなっていました。


岩略寺城 二の曲輪 西から
 二の曲輪は本曲輪と土塁で仕切られていました。二の曲輪からは大手道の東からの侵入者を頭上から攻撃でき、腰曲輪bも見下ろす位置にあります。なお二の曲輪と本曲輪を仕切る土塁に開口部が見当たらないため、この曲輪の解釈にもいろいろな見解が示されていますが定説はないようです。


岩略寺城 虎口BからⅣ郭への犬走状の城道h 北西から
 虎口BからⅣ角への城道は帯曲輪b、二の曲輪、東曲輪から見下される位置にあり、侵入者はⅣ角に入るまで頭上から攻撃を受け続ける構えになっていました。 


岩略寺城 平場iと左に西辺土塁  南から
 北に伸びる尾根の先端部の平場は、西辺に土塁が設けられていました。V郭のある北西尾根との間の谷筋を登ってくる侵入者を想定した備えのように見えますがどうでしょう。


岩略寺城 北尾根の武者隠  東から
 平場を突破してもこの武者隠からの攻撃が待っていました。武者隠からの出撃は上部の平場qからの援護が期待できそうですね。


岩略寺城 平場qと周囲を取り巻く土塁 南から
 Ⅳ郭の先端部の平場qの周囲を巻くように土塁が設けられていました。北尾根からの侵入に対しては平場、武者隠と平場qで何重にも防御態勢が敷かれて、厳重な守りであったことがわかりました。 


岩略寺城 堀切D 今は埋め立てられて林道の広場になった ここに案内板がある
 岩略寺城の林道は、現在の林道の敷設前にも古い林道が有ったようで、一部が山腹に残り、古い林道により遺構の一部に改変があったようです。
 見学会は、参加者の安全と疲労も考慮して林道を歩いいて帰りました。岩略寺城を訪れたことがある会員さんがほとんどでしたが、これまでとは少し異なる角度からの見学で、新しい発見もあったと思われます。