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遠江・馬伏塚城 その2 初期の城郭が改修された北郭群と伝居屋敷を見る

2021-12-06 | 歴史

馬伏塚城は静岡県袋井市浅名にあります。その1では南郭群を見ましたので、その2では北郭群と推定居館域を見学します。参考資料はその1と同じです。
 北郭群には今川氏親に仕えた小笠原長高が築いたとされる初期の馬伏塚城が在ったとされ、その後徳川家康によって改修を受けたと考えられています。その北側の伝居屋敷とされる推定居館域は城主の家臣の屋敷があったと推定されていて、北側の尾根を断ち切る大きな堀切が在ったようです。絵図の伝居屋敷には若宮が描かれていますが、今は遷座して南の本丸の諏訪神社の隣に鎮座していました。家康が領してからは岡崎の城山や横須賀城と連携していたとされます。   ※馬伏塚城 その1はこちら         岡崎の城山は→こちら


馬伏塚城 絵図は廃城からほぼ百年後の姿
 堀の外側には深田が広がっていて、容易に攻められない場所になっていました。北側の尾根続きが弱点なので北に対して大堀切と大土塁が構えられていました。


馬伏塚城 絵図と発掘調査、地形からの想定図
 北郭群には Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ郭が想定されています。高天神城攻めの時に徳川家康によって南郭群が新設され、北郭群は改修されたと伝わりますので小笠原氏の築城した初期馬伏塚城の城郭遺構は明確になっていないようです。


馬伏塚城 Ⅰ郭  西から 手前の田地は外堀跡
 Ⅰ郭北辺には大土塁と大堀切が築かれていますが、Ⅰ郭内北辺の大土塁は個人宅の中ですので直接見ることは出来ませんでしたが北側の急角度の切岸を見ることは出来ました。大堀切は幅20mで深さが8mの規模の大きなものだったようですが、今は道路となりある程度埋められていました。
 ※写真には写っていませんが左手に岡山公会堂があります。


馬伏塚城 CS立体図で見るとⅠ郭の北辺土塁がくっきり見える。
 堀切AはCS立体図でも埋め立てられたためか目立ちませんね。堀切Bも南北に通る道になって堀切の存在は推定の範囲のようです。


馬伏塚城 北郭群を東から外堀跡越しに見る 道奥にⅠ郭がある    高低差に注目!
 外堀は埋め立てられて田地となっていますが、その地形の大部分は確認できる形で残されていました。田地の面から曲輪面までの高低差は6mほどあるようです。


馬伏塚城 外堀北端部と堀切B 西から
 外堀は絵図でも伝居屋敷の北辺まで回り込んでいたようです。堀切Bの部分はこの時点でも完全には掘り切られていないようですね。自然地形を利用した堀切のようですが、往時にどの程度掘り込まれていたかは確認されていないようでした。


馬伏塚城 堀切B付近  南東から 奥(西)に向かって外堀がある
 写真手前の道路は堀切を埋めたのか、往時から土橋状の道があったのか確認は出来ませんでしたが、ある程度掘り切ってあったのではないかと想像して見学しました。


馬伏塚城 伝居屋敷付近  東から  手前に外堀跡の田地
 絵図で若宮が描かれている付近の東側からの写真です。この辺りの高低差は7、8mほどあるようです。


馬伏塚城 伝居屋敷西側の外堀跡   南から 右上に了教寺
 西側も堀跡は田地になっていて伝居屋敷との高低差は5~7mほどでした。 


馬伏塚城 了教寺の小笠原氏清と竹田重右エ門の供養塔
 馬伏塚城の城主であった小笠原氏清は、徳川家康が遠江を支配すると、その軍門に下り馬伏塚城で亡くなりました。氏清配下の竹田重右エ門も大須賀康高に付けられ康高の命により氏清の供養塔を了教寺に建てたとされます。


馬伏塚城 伝居屋敷  西辺の切岸  北から 
 伝居屋敷の西側にも切岸が残っていました。風化があり、曖昧な地形似なっていますので、どの程度往時の姿をとどめているかは明確ではありませんでした。


馬伏塚城 伝居屋敷 北東角の塀に小祠が祀られている 鬼門除けか
 伝居屋敷は推定居館域ともいわれ、往時の屋敷地だったとの確証が無いようですが、道沿いのお宅の塀の角を切った北東隅には鬼門除けと思われる小祠が祀られていて屋敷地の跡と考えても良さそうな雰囲気でした。 

馬伏塚城は住宅開発などが先行して遺構が失われ、個人宅の中に遺構があるなどの条件で、往時の姿の見学が難しい面もありましたが、地形として残っている部分も結構多くて、想像力を働かせながら楽しく見学出来て良かったです。