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三河・長沢上屋敷、下屋敷 長沢の地はどこに? 長坂松平氏はどこに?

2021-12-14 | 歴史

長沢上屋敷、下屋敷は愛知県豊田市長沢町にあります。従来、長沢といえば愛知県豊川市長沢(旧宝飯郡)であり、長沢松平氏の初代松平親則が長坂城を築城したされてきました。ところが歴史研究者の平野明夫氏が長坂は豊田市に有る長沢町の可能性が濃厚であるという研究結果を発表されています。
 今回は(1)「三河松平一族」平野明夫 2002 と (2)「音羽町史 通史編 音羽町史編さん委員会 2005 を参考資料として豊田市長沢町と、長沢松平氏の墓所が有る岡崎市岩津町の円福寺を見学しました。
 

長沢上屋敷、下屋敷 周辺は松平氏発祥の地に近く、古くから松平氏の勢力圏だった
 長沢町の町名は明治になって遊平村と西大沼村が合併して出来たものですが(1)では小字名に長沢東と長沢西があるので、この地を長沢と称した痕跡とされています。(2)では長沢松平氏の初代親則は、松平信光が攻め取った長沢の地を与えられたとされますが、史・資料が乏しいために明確な歴史は不明で、あくまで伝承の域を出ないようです。今回見学した長沢上屋敷、下屋敷もここに親則の屋敷地があったとは確認できませんが、(1)に従えば「このあたりに」屋敷があったのではないかと想像しながらの見学になりました。


長沢上屋敷、下屋敷 郡界川に削られた舌状地形に長沢町は有る
 郡界川の両岸に田地があり、耕地整理が進んでいますが、往時も田地が川沿いにあったのではないかと思います。親則の屋敷がこの地のどこにあったのかは不明ですが、屋敷跡らしい地名の上屋敷と下屋敷がありました。


長沢上屋敷、下屋敷     郡界川越しの東から  
 上屋敷、下屋敷の地名が残るのは舌状地形の東側でした。手前の田地は、今は耕地整理が進んでいますが往時は郡界川の水を利用して小規模な田が連なっていたのではないでしょうか。


長沢上屋敷、下屋敷   上屋敷地区   南から


長沢上屋敷、下屋敷    下屋敷地区  北東から  右側の道を挟んで上・下に分かれている

 地名として上屋敷、下屋敷が残りますが、屋敷地としての遺構は見当たりませんでした。親則は岩津に住んだという伝承も有るようなので、誰の屋敷を示す地名なのか?ですね。


円福寺 山門 奥に鐘楼と本堂 左手に長沢松平氏の墓所が有る墓地   岡崎市岩津町
 円福寺は松平信光が創建したといわれ、境内の墓地に長沢松平の初代から七代の墓があります。長沢松平氏は豊川市の長沢に歴代が居住したとする伝承もありますが、ここに累代の墓地が有ることから豊川市の長沢に居住したとの説に疑問を投げかけられているようです。
※円福寺は古くは妙心寺でしたが後世に京都円福寺と寺名の交換が行われて円福寺となりました。


円福寺 長沢松平氏墓所 塀に囲まれた墓所に累代の墓が祀られている
 円福寺の場所には古くは妙心寺城の館城が在ったとされます。親則以降の七代が豊川市の長沢ではなくてこの館城に居住したともされ、墓所がここにあることがその根拠の一つともいわれます。


円福寺 長沢松平氏の墓所    松平泰親、松平信光の墓石も有る
 長沢松平氏の累代の墓が塀で囲まれた墓所内にまつられていました。松平泰親、信光の墓所は大樹寺などにもあるので、顕彰碑でしょうか。

長沢松平氏の伝承は史資料が少ないため、多くの説が研究者の方々によって唱えられているようです。その中でも長沢の地が豊田市長沢町という(1)の説は特異な説のようですが、豊川市の長沢と決定づける資料も無いようで、(1)の説を否定することもできないようです。
 松平氏が発展し、後に徳川家康を生んだため、伝承も誇張がまじり、無理やり松平氏の本流に結びつけることなどで、辻褄が合わない伝承となっている場合もありそうですね。

今回は、東海古城研究会の見学会が豊川市の長沢松平氏の拠点の一つとされる岩略寺城で行われることに関連して、事前に主に(1)を参考資料として見学しました。