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三河・岩略寺城 その2 残りの良い興味深い遺構がてんこ盛りの山城 見学会で訪れる 

2021-12-22 | 歴史

岩略寺城は愛知県豊川市長沢町にあります。その1 に続いての投稿です。東海古城研究会の月例見学会はコロナ対策で12月も午後の半日コースの現地集合、現地解散で行われました。
 今回の参考資料もその1と同様  (1)見学会当日資料   (2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997  (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010と現地案内板などです。
 ※岩略寺城 その1は→こちら


岩略寺城 愛知県下 最大級の山城 東海道を見下ろす位置に築かれている
 松平家忠日記に、長沢の城の普請の記述がありますが長沢地区には岩略寺城、長沢城、登屋ケ根城などが有るため、どの城を指すのか明確になっていないようで「諸説あり!』状態です。


岩略寺城 土坑①②③④⑤の機能を考えるのも見学会のテーマ  
 ①~⑤の土坑がありますが水が出ない、貯められない地層とされ、その機能について研究者によって様々な見解が示されてきました。5つが同じ目的で掘られたとは限りませんので様々な解釈がなされてきたようです。


岩略寺城 土坑② 本曲輪から雨水を溝で導水して貯めた説の対象になっている
 以前は、土坑②と④は本曲輪の雨水を溝で②と④に流し込んで貯めたという説が有力でしたが、地質研究者の「この地質では水は出ない、貯められない」説が唱えられて、定説とは言えなくなったようです。資料(1)によると、水が貯められないという指摘に対しては、内部に粘土を張って漏水を防いだという見解あるようですが、土坑内部を観察してもその痕跡はないという反論や、大きな瓶または大きな木桶を据えて、水は山下から馬で運んだという説もあるようです。 


岩略寺城 本曲輪に隣接した井戸曲輪の土坑③  最高所にある
 土坑③には井戸曲輪と井戸の標柱が立っていますが、水が湧く可能性が低そうに見える土坑でした。だとすると目的が不明ですね。櫓台地形と下段にⅣ郭が有ることなどから櫓台に関連する堀切の一種とする見解もありますが、どうでしょう。ここでは大木の根こそぎ穴跡説はちょっと難しそうでした。

       
岩略寺城 土坑④ 本曲輪から溝で導水して貯めた説で説明できそうな土坑
 土坑④は本曲輪の溝地形や土塁の開口部などから導水、貯水説が語られてきました。確かにそのように見えるのですが、測量の結果から高低差の関係で本曲輪の溝からこの土坑に水が流れることはないという研究結果が発表されて、従来説が揺らいでいるようです。


岩略寺城 土坑⑤ 根こそぎ倒木の穴のように見える穴
 土坑⑤は、急斜面の大木が倒れ掛かった根元の穴のように見えました。写真では見難いですが左側に倒れかかった大木の根元が見えています。この木はまだ枯れてはいませんでしたので、案外新しい穴かもしれないと思いました。
 土坑の目的等については発掘調査が行われればヒントが得られるかもしれませんが、謎のままかもしれませんね。


岩略寺城 本曲輪 枡形虎口A
 本曲輪の東辺土塁には枡形虎口Aの開口部がありました。岩略寺城はよく見ると本曲輪の周辺を腰曲輪と犬走状の城道が一周しています。虎口Aは犬走状の城道から直角に登るようになっていて、犬走状の城道は土塁上から見下ろせる備えになっていました。


岩略寺城 虎口A 本曲輪東辺の土塁開口部の虎口内側には枡形の掘り込みが残る
 本曲輪には内枡形状の虎口で入ります。


岩略寺城 本曲輪 標柱が立つ 
 本曲輪は最高所にあり、ほぼ方形で四周を土塁が囲んでいました。土塁は後世の破壊道や崩落で一部が失われていますが、往時の姿を十分に想像できる残存状態でした。内部は植林がされ、雑木も生えています。

その2
では土坑を中心に本曲輪まで見学して来ましたが、大手道など、残りは その3で完結したいと思います。