眠りたい

疲れやすい僕にとって、清潔な眠りは必要不可欠なのです。

消失した夢

2009-12-07 | 日記
忘却の果てに、僕は名前を見失う。それは存在そのものの不確実さ。猫が泣いている。誰かの名前を呼んでいる。でも、野良猫の呼ぶ声には、もう応えられない。僕が名前を失くしてしまったからだ。アスファルトの路上でグラスを叩きつけて皆と別れた街の深夜。僕は永遠に名前を見失う。誰かが昔の名前で僕を呼び止めた。交差点の路上で、僕は呆然とし息を止めた。しばらく僕の顔を覗き込み、かつての友人は、「失礼。人違いでした。似ている人を知っているもので・・・。」そう呟き、わき目も振らず満員の電車に乗り込んだ。記憶が薄れ行く。薄明の白い空気のなか僕は見慣れたはずの駅の構内をぐるりと見渡した。
知っていて筈だ。僕を呼び止めた男が、かつて大切な友人だったことを。それでも僕には名前すらない。ぼんやりとした記憶の残流に身をゆだね、忘れる事を願った夜の感触にそうっと触れてみる。傷跡が風化し肉が盛り上がっている。撫でると、軽い痛みが走る。戻らないものを想って泣こうとしたけれど、神経が硬い殻に覆われ真実に近ずく術を知らない。青い月夜を想った。
僕の名前は何だったんだろう?思い出そうと必死になる。誰かがまた名前を呼んだ。聴いたことのある響き。けれどもそれは、たぶん今の僕の名前ではなかった。
雨の夜。
僕は車を止め、シートを倒してラジオの声を聴く。下らないお喋りと反吐の出そうな音楽が流れ続けた。煙草に灯を点け在りもしない夢の続きにすがった。奇妙に寒い夜だった。僕は忘れた名前を想い出そうと努力する。消えて無くなった顔と思い出せない名前。誰が僕を暖め、誰が僕を寒い夜に部屋から追い出したのだろうか?いや。あのとき逃げ出したのは僕の方だったんだ。
記憶に蓋をした。
灰色の部屋で、ワインを空けフランスパンを引きちぎって食べた。壁の落書きにはラテン語で「Memento_Mori」と書き殴られている。
   「死を想え」
対立した概念。死を想い生に這い蹲る。僕の名前は一体何だったのだろう?
ながいながい時間、呼ばれなかった存在のかたちはいつしか変容し、同じ名前など何処にも存在しなかったのだ。もちろん例外なく僕の名前もこの瞬間に、永遠に消失される。フライパンで肉を焼き食べた。ブラックペッパーを入れ過ぎたようだ。刺激が舌を麻痺させ今日も眠れそうに無い。遣り残した膨大な雑事に振り回され、公園のベンチの記憶が薄らぐ。あのとき、真剣に語った言葉はどうして省みられなかったのだろう。風が街の路地を吹き抜ける。言葉は意味を見失った。
表層のあらゆる認識は、すべて誤認だ。あるいは物語に記された幻想。
ワインの最後の一滴を零す。ウイスキーの瓶の蓋を開けた。
空き瓶を作らなくては。君に長い手紙を書いて瓶に詰め、何処か都合の良い浜辺から海に流す。僕の独白はいつか君の手元に届くのだろうか。差出人は不明のままだ。僕には名前が無いから記入できなかったんだ。海水の湿気にやられ、手紙は多分永遠に判読不能だ。そうしてそれこそが僕の真実だった。
忘却の果てに、僕は名前を見失う。
病室の白い壁は清潔だ。ひんやりとした空気の中、おぼろげにギターを弾いた。グリーンスリーブスを就寝時間まで弾き続けた少年。おれんじ色の非常灯の灯りが暖かかったのを憶えている。やがて忘れ行く記憶。憶えている名前と忘れ去られた名前。どちらの数が多いのだろう。消え行く静か過ぎる沈黙。
缶詰めのビーフシチューをなべで温めたのは深夜の出来事。喉がやけに渇くので、グラスに残った氷を齧った。
    「死を想え」
猫が泣いている。誰かの名前を呼んでいる。
でも、野良猫の呼ぶ声には、もう応えられない。
かつて野良猫だった僕の記憶は、もう戻らないんだね。消えてしまった大切な仲間達と同じように。
乱雑なる意識の混濁。容赦なく、肩に雨が降りしきる。



コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 優しさの資格 | トップ | 赤い電話 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
哀しい優しさは... (アルル)
2009-12-08 00:42:14
たぶん
哀しさを知っている優しさは外界に放射するのではなくて
内へ内へと深く薄く滲んでゆくものなのでしょう

だから
それを感じた者は
胸の何処かが
少しだけ痛んだり
綻んだりするのです

.......

少し前からロムさせて頂いていました。
最近のネットは仲良し倶楽部のお喋りや、井戸端会議の世間話のようで食傷気味で、少し距離を置いていたのですが...。


ああ、まだこんな言葉を並べている人がいたんだ...と、なんだか懐かしくて書き込みしてしまいました。

また、言葉を並べてみようか、と、思わせてくれるような。

誰かに向けて、ではない
自分の奥に向けて、突き刺す言葉。

こころに哀しみの優しさが滲んで微かな染みができました。

ありがとう、また、来ますね。
返信する
アルルさんへ (sherbet24)
2009-12-08 22:58:54
はじめまして、アルルさん。酔っ払いの詩を読んで下さって有難うございます。時代遅れの壊れ物みたいな言葉たちですが少しでも気に入ってくださったなら嬉しいです。
優しさと哀しみの成分はきっとおんなじなんだね、と大好きな浅井健一さんが唄っていました。僕もそう想います。
コメント有難うございます。お暇な時間があればぜひまた遊びに寄って下さいね。お待ちしています。
返信する
砂嵐 (kuroyagi)
2009-12-13 23:40:15
こんばんは。

いつも貴方の詩で旅をさせてもらっています。誰かの過去は常に新しく、わくわくしますね。

この日記のイメージにぴったりの風景を
今日、大阪の大きな本屋さんで見つけましたよ。マリオ・ジャコメッリという外国の写真家の写真です。もしかしたらご存知かな。
おごそかな気分になります。

意識の混濁っていうと、わたしは砂嵐の
ようなものが浮かんできます。
異界と異界が交錯する僅かな狭間。
ずっと覗いていたいですね。
返信する
kuroyagiさんへ (sherbet24)
2009-12-14 02:34:02
マリオ・ジャコメッリという写真家のお名前は初めて聞きました。東京で展示会があったみたいですね。機会があればぜひ観てみたいです。
教えてくださってありがとう。

貴女のあたらしい小説「子音の転寝」。とても素敵です。僕はもしかしたらkuroyagiさんはもうネットでは作品を発表しないのかな?と寂しく想っていたので、とても嬉しかったです!!
「子音の転寝」のはじめに、の言葉にとても共感してしまいました。ずっと覗いていたですね。
今日は師匠が19世紀ギターだけでハイドンを演奏するかなり実験的なコンサートの裏方してきました。打ち上げでワイン2本空けてかなり酔っ払っています・・・。

この日記のイメージにぴったりの風景。
気になりますね。

お暇な時間が見つかれば、なんでもコメント嬉しいです~(酔いどれ)。


返信する

コメントを投稿