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志を貫き通す生き様『薄桜記』

2020-01-07 07:52:27 | 歴史から学ぶ
「武士道」と「恩義」に生きた典膳の「人の道」、最後の安兵衛の「我々の至誠が天に届くか」で勝負が決まった。典膳と最後の勝負に赤穂の志・恩義に報いる赤穂浪士の生き様に負けたと読める。 武士として、男としてすざましい「生き方」をここで学んだ。 現代では中々志を貫き、それが自分から相手に勝負を譲る、たとえ自分がその犠牲になろうとも、とはしないだろう。
『薄桜記』五味康祐
旗本随一の遣い手と言われた丹下典膳は、はからずも左腕を失い市井の浪人となった。一方、一刀流堀内道場の同門である中山安兵衛は、高田馬場の敵討で剣名を挙げ、播州赤穂藩浅野家の家臣・堀部安兵衛となる。立場は異にしても、互いに深い友情を感じる二人。だが、浅野内匠頭の殿中刃傷は、二人の運命をさらに変転させた。時代小説界の巨人が、侍の本分を貫く男たちを描いた名篇。
  • 江戸の一刀流指南である堀内道場の剣術家、旗本の武士丹下典膳は上杉家の留守居役の娘千春を妻に暮らし始めていた。ところが大阪城番組への命を受けて旅に出たが、その間千春が幼なじみの男と一夜で過ちを犯す。武家の妻たるものがあってはならぬ事件を引き起こし、公になれば双方とも死罪、お家も一言では済まされないことになる。典膳は江戸に戻った後、思案した結果、妻とその男のことをだまり通し、妻と離婚したいと妻の家族に嘆願するが妻の父、妻の兄が納得できないと、兄が思わず抜刀し、典膳の腕を切り落とすことになる。 それでも典膳は離別の理由を隠し通し、お家は断絶、ひとり暮らしとなる。典膳は元妻に「死ぬことだけはならん。丹下典膳生涯に妻はそち一人と決めておったぞ」と言って去っていく
  • 越後から出てきた中山安兵衛は堀内道場に入門、その後伯父の敵討ちで助太刀、剣名で名を挙げ浅野内匠頭の家臣のとなる。その後浅野内匠頭の殿中殺傷が起り赤穂藩が取り潰しとなる。大石内蔵助はじめ四七士の赤穂浪士討ち入りとなる。 その前に上杉家の家臣ではない典膳が上杉家江戸家老千坂兵部の嘆願から吉良上野介の守り役をすることになったことで、安兵衛はまず典膳を斃しておく事を考え討ち入りの前に典膳と討ち入りの前日、一騎打ちをすることになる。堀部の言葉「この期に及んでは、もう何も申し上げることはない。あなたが勝つか、我々の至誠が天に届くか」
  • 「江戸の密通罪」その場において討留、訴え出れば男女ともに同罪となり姦夫姦婦を、主人の妻に通じた男は獄門、女は死罪となった
  • 「武士階級」武士の生涯は家柄と家督を継ぐのが武士であり、変わるとなるとせいぜい主家を浪人するか、主家滅亡で討死、過失による切腹か、簡易化、蟄居か、追放となる
  • 「吉良上野介」強欲非道の悪人と言われるが実は少々意地もあり内匠頭に勅使を迎えるにあたって、これまでの礼儀等を正すよう指示した事が殺傷事件に及んだ
  • 「浅野内匠頭長矩」は勅使を迎えるに至って過去の儀礼を大幅に失くしたことが周りの家臣と吉良上野介に不満をもたらしたとある 元々赤穂藩は節約で2万両とも言える蓄えがあったが実は農民からの暴利の搾取を敷いていた。長矩は幼い時から苦労というものも知らず周りから甘やかされ、けちん坊、けじめも着けぬ短気で癇癪もちの性格だったとある 浅野内匠頭が切腹と聞くと赤穂の農民たちは大喜びで餅をついて祝ったともある。また、長矩は体に不肖の生まれで持病のヒキがあり物事取り鎮めることができなかった。長矩について46士の妻への手紙にも「主君のためより、武士道のため」とあり、「心から心腹していた亡君の怨みを報ずるためではなく・・」、また明君ではなかったとある。
  • 「浅野内匠頭の切腹」当主であり城主であれば座敷内での切腹だが武士道の本意に非ず庭上で行われた
  • 「殿中殺傷」は貞享元年大老堀田筑前守正俊が若年寄の稲葉石見守に殺された、天明4年には若年寄の田沼意知が新御番の佐藤善左衛門に殺される事件があったがいずれも「脇差の突き」であった。浅野内匠頭の太刀使いは武芸心得が初歩であったと言う
  • 「討ち入り」合言葉は山と川、女子子供、逃げるものはこれを追わず、吉良上野介の首級をあげれば、引き揚げの場所へ、持参の用意に死骸を上着で包むこと。息子佐兵衛の首はとっても持参に及ばず。引き上げの出口は裏門たること。吉良、上杉の追手がかった時は総勢静まって踏みとどまり勝負すること 討ち入りは雪降る12月14日2時間ほどで午前6時には終えた。吉良方は死者15人、手負い23人 吉良上野介には28箇所の切り傷があったと言う
  • 「赤穂浪士・忠臣蔵」で偉かったのは浅野内匠頭ではなく、家老大石良雄と、武人派の堀部安兵衛と、上杉家の千坂兵部に頼まれて吉良の付け人となった丹下典膳だった
  • 堀部安兵衛の「武士の義に殉ずる道に2つはござらぬ」