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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

比企郡連合青年団体育競技会 1939年

2009-11-08 08:02:00 | 1939年

郷土たより 栗原正敏編輯
   郡競技会
 郡連合青年団体育競技会は十月一日松山町箭弓グランドに於て挙行されたが、本団にては左の諸君を選手として送り、好成績を得ることが出来た。
 尚飯島貞介君は重量運搬の郡代表選手となり県大会に出場の栄誉を得た。
  剣道 小林政市 内田哲郎
  角力 船戸武彦
  銃剣術 飯島繁 市川林三
  手榴弾投 小林森久 松本正作
  重量運搬 飯島貞介 船戸武彦 飯島繁 杉田善作
  障害物競走 田畑米三 内田角五郎 小林森久 田島正三 松本正作

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


出征兵士遺家族慰安映画会 1939年

2009-11-07 08:00:00 | 1939年

郷土たより 栗原正敏編輯
   出動将兵遺家族慰安の夕
     東日ニュース映画会開催さる
 本村青年団新聞部主催の出動将兵遺家族の慰安の映画会は十月二十一日午後六時より小学校校庭に開催された。
 御招待せる遺家族の方々定刻までに全部出席され又一般の入場者も以外に多く非常なる盛会であった。
 東京日々新聞のニュースに軍事劇に又は漫画に見物人一同夜の更けるを知らざる程であった。
 出征軍人遺家族の方々に喜んで見物して頂けたこと我等としても感謝の気分を少しでも表し得たこと嬉しく思ふ次第である。

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


七郷青年団武道練習会 1939年

2009-11-06 00:25:00 | 1939年

郷土たより 栗原正敏編輯
   武道練習会
 体育部主催夏季武道練習会は八月三日より一週間、毎夜八時より十時まで二時間づつ小学校講堂に於て挙行された。
 団長阿部寶作氏は毎夜定刻前に出席、熱心に指導し又激励したので、団員一同一人の欠席もなく、最後まで猛烈なる練習振であった。古里千野久男四段、小学校の鷲峯二段は交替にて指導の任に当たってくれた。

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


乳幼児体力検査が実施される 1939年

2009-11-05 00:16:00 | 1939年

郷土たより 栗原正敏編輯
   乳幼児体力検査
 昨年四月一日より本年五月三十一日まで出生の乳幼児の体力検査は七月二十五日、二十六日の両日、【七郷】小学校に於て実施せられた。名簿登録者数九十七名中欠席は僅か三名にて、九十四人受検査の中、男四十八名、女四十六名にして疾病殆んどなく、栄養も大変良好であった。
 戦線の父チャンよ御安心下さい。

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


郷土たより 七郷青年学校、青年団成績優良 1939年

2009-11-04 23:31:00 | 1939年

郷土たより 栗原正敏編輯
   青年学校男女青年団
     成績優良なりとの講評を受く
 福田、七郷両青年学校並に両村青年団七郷女子青年団の査閲は十一月二十七日午前七時より本村小学校に於て実施せられた。午前七時より一時間学課査閲、午前八時より正午まで教練査閲、数時間にわたりての査閲中二百の両村青年学校生徒は実に緊張そのものの如く真剣に又元気溌剌と日頃の猛訓練の結果を充分に発揮し教練査閲官より実に気概あり、非常に成績良好なりとのありがたい講評を受けることが出来た。
 特に学課査閲の如きは七郷の方がよろしいとまでの講評を学課査閲官より頂いたほどである。日頃訓練を受けざる男女青年団の閲団及び分列の如きも又実に堂々たるものあり。銃後の七郷盤石の如く将来の七郷益々発展性あるかの如き感を参観の人々に與へることが出来たのである。

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


郷土の便り(太郎丸) 大沢卯之吉 1939年

2009-11-03 07:08:00 | 1939年

 日支事変以来字としても皇軍戦勝の祈願を初め、其の他色々祈願など鎮守様にて毎月三日正十二時には太鼓合図の元に行なはれます。我が皇軍も益々敵の心臓たる地に又奥地に攻め進み行く様ですが、我が皇軍の進むのもけして支那が弱いのでは無く、言ふ迄も無く我が皇軍の強い事と深く深く認識致す上、我等国民と致して、又青年と致して、飽迄(あくまで)国民精神総動員の事をば守り、私くし達農務に出来うる限りの力と熱とを持て邁進して行く覚悟で御座居ます。
 其の意気を持て今は農務に励んで居ります。何んと言ふても農家としては物を取る事が大切であると思います。此の事変と致しても、大切な小麦の如きは当字と致しては例年度より、はるかに増産で有ります。一戸当り二、三俵は確実に目に見えて居る様な訳です。又春蚕の如きは実に、莫大の結果に上って居ります。やる事なす事皆な熱心にする上か、此の様に小麦や麦なども言ふ所ろ無く、万点万点にと進み行き、字に致しては誰でも又何処の家でも益々恵比寿様の如くになって今の仕事の晩秋蚕に励んで居るが、前い、前い【前へ、前へカ】からの意気である上、色々の結果の様子です。
 又桑園の如きは金肥も節約致した上、自給肥料にて矢張り例年の約三倍以上増産致して居ります上、字と致しては申迄も無く、他村や他の字にも随分桑を売り出して居ります。
 蚕で上がり、又多少桑で上る上、益々にこにことに笑ふ角には福来るの様な事で、又農家と致して一番大切な水田の如きは実に此の上も無い豊年の様子です。又豊年の様子では無く、確実に豊年と定り、此の二、三年前は少し大雨が降ると字は耕地に大水が出て作物を初め、色々の物など目茶目茶に、荒し荒されてしまったが、此の一年前、県の御骨折にて河川工事を致した上、御陰様にて昭和十三年度の如き、大水でも大した事も無く、又此頃の大雨でも少しも水は出づず、実に当字と致しては作物を初め、色々の物が大増産を益々見て居ります。(終)

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


郷土の便り(杉山) 内田哲郎 1939年

2009-11-02 15:17:00 | 1939年

 青く高く清浄なる大空、黄色を帯びし実もたわわな稲穂又、その上を吹き渡る風、又、終日しとしとと降る雨、辺り一面に聲える虫の音、全く今は中秋である。秋の風情は万物に宿り、天地間の物皆果を結ばんとして居ります。誠に秋は広壮であります。人間世界は今東、又西に正邪の区を別ち邪を滅せんと尊き人命を無にして奮戦して居ります。宗教的立場から見れば誠に哀れな事に思ひる事でもあらう。将来の事、又、その為に立たんとせん国より見れば大いに意義のある事も思ひます。
 鴨長明の方丈記、うたかたに、ゆく川の水は絶えずして、しかも元の水にあらぢ。よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消え、かつ結びて、久しく止る事なし。世の中にある人と住家かとはまた此の如しと。之は、人生のいかにはかなきかを嘆いた文句に過ぎない。何故短い一生の中に人間は何んの為に血を流して闘はねばならぬのか。
 戦ひは人間ばかりではない。ありとあらゆる生物には常に闘争がある。ましてや万物の長たる人間に於ておや。それがなからう筈はない。祖国を思ふは我を思ひば、日支事変も最早二ヶ年余、聖戦の成果も益々上って居ります。吾が杉山よりも武勲を輝かせつつ大陸の山野に広駆して居ります。勇士は多数居ります。之ら勇士の方々に銃後の青年として何を以って報えたならよいであらうか。その一端として団報を通じて、字の大様の偶筆を以って御報告させて戴きます。顧りみれば事変始って実りの秋最早三度、勇士の皆様も農家の出身故、敵を前に銃剣いだきて漸しの間まどろむ夢に、又一時の休みに、思ひは故郷に走り、本年の稲の出来は、蚕はと色々と御想像の御事と推察致します。
 第一線の皆様喜んで下さい。未曽有な大事変に会ひ無くてはならぬ農作物は多幸な事に、本年は非常に豊作です。今、田圃は実もたわわな稲穂は秋風にないで居ります。土用より今日まで天候実に良く、稲順調に過ぎ、最早多収は間違はないだらう。
 夏作も大豆、小豆と云ひ稀にみる上出来です。これ皆神の加護です。第一線の兵隊さんの御陰です。養蚕もこの晩秋蚕は十円以上だろうと云ふ非常な高値の由で、銃後も前線の皆様に負けはせぬと皆張切って居ります。春蚕も初秋蚕も好成績を得ました。掃立数量からも、又収繭量より見ても労力不足の今日に於いても決して以前に劣ってはおりません。
 弾丸の飛び来る炎熱の中を呑まず、喰はず、昼と云はず、夜と云はず御国の為に戦って下さる沢山の勇士の方々を思ひばと、銃後も全く真剣です。
 吾が杉山にも一大文化の一端が現はれました。百何十尺とかの鉄道省、送電大鉄塔は越畑より来る広野大橋付近より薬師堂前に入り、杉山を斜めに走り、志賀観音堂の南に通って居ります。山頂に巍然(ぎぜん)とそびえる様は文化の対象物のなき吾が村にとっては実に一偉観です。工事は当地に本年早春に始められ、八月に完成した様です。最早全完成も間もなく発送電される由です。この暁は東海道本線は電化され、又工場は今の電気不足も吹き飛ばし、工場のモーターの物凄い唸りは多数の生産品を山と積むことでありませう。
 未だ特筆すべきは数ありますが、杉山支部の様子を御伝へ致しませう。
 事変が始まりますと、出征、入営、又や都会の工場にと、国防の第一線に又産業戦士として活躍なされて居ります故、支部員は全く少人数となり、或は時などは七人となり心細さを感じた事もありました。然し人数など問題ではない。前線の兵士は何十倍もの敵と戦って居るではないかと。協力一致の実を上げ支部員毅然たる態度で活動して下さいました。
 新鋭青年、早川長助君は名誉ある興亜青年、報国隊埼玉中隊の一員として、一月より満洲に参り、智識を博めて間近に帰還致す事でありませう。
 我々のよき指導を待って居ります。
 本団役員も本年早春代り、更に強力な七郷青年団が組織され、若人としての任務を遂行しつつあります。吾が杉山より阿部新団長の就任を見、支部の誇りとすると共に、支部員一同の心身共に強固に、事業遂行に、且っては比企郡連合青年団より表彰されし栄誉を更に光輝あらしめんと努力致しつつあります。前線の諸兄よ、中秋十五夜の月も間もありません。弾丸飛び来る広野の果に、枯草枕に眺むる異郷の月、故郷の月と異はねど自らその趣情は異なる事でせう。月見る度に故郷を思はぬ者はない事でせう。
 雲なき夜空を昇る月に、又、雲間に浮ぶあの月に、過ぎし数々の戦闘に、厳寒、酷暑をものともせず、全くの苦難と戦って、只祖国日本の為、東洋永遠平和の為にと働き下さる勇士を思ふ時、何を以って、之に報えんや。吾等若人はこの位の労力不足は「何のその」の意気で勤労倍加、生産拡充に一人で二人分も三人前も働くことこそ銃後青年の大きな努めである。与へられたる義務でなくてはならぬ。
 そして戦場の勇士に先づ安心して戴くことが大きな感謝の一つである。
 今攻め立てられて居るあの悲惨なポーランド民衆、又敗戦に敗戦を重ねて居る蒋政権下の支那民衆のいかにみじめであるかを考へた時、吾々は皇恩の又国体のいかに有難いかを一時も忘れてはならぬ。
 前線の兵士も銃後の吾等もお互ひに励まし合ひ更に振るえ立ちて新東亜建設の一大事業に邁進すると共に東洋永遠平和の礎と進んでならうではありませんか。国防第一線の諸兄よ益々奮励致すと共に御自愛の程御祈り申上ます。(終)

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月


郷土の便り(広野) 小林森久 1939年

2009-11-01 15:49:00 | 1939年

御在隊の皆様御機嫌は如何ですか? 暫く御無沙汰して居りましたが団報発刊に当り、皆様の御留守に起った広野の近況を記述して村の様子を知って戴き、併せて御無沙汰御詫びにさせて戴きます。事変が長引くにつれて、聖戦参加の皆様方勇士の数が益々多く成り、銃後は非常に手不足を感じます。然し、生産拡充、勤労倍加の意を体して、私達広野の若人も、今元気一杯に皆様御留守の郷土を守って毎日農耕にいそしんで居ります。稲も見事な穂を揃へました。今年は春の気候の関係で田植が遅れ其の作柄も案ぜられましたが其の後土用に入っての暑さと適当な雨量とに案外立派な成育振りをみせて秋に入っての気候も良く今瑞々(みずみず)しい穂波を耕地一面にうねらせて居ます。気遣われた颱風も事無きを得そうで本年は豊作の見込が付きました。
亦欧州戦争の余波を打けて生糸の奔騰(ほんとう)に可成りの高値を出している蚕も只今晩秋蚕上蔟中です。今年の蚕況は、春は普通で値段は八円位でした。初秋蚕は一寸上作とはいへませんでしたが値段に於て九円位の高値が見られ晩秋蚕亦、少々成績は面白からぬ方もある様ですが、値段が十一、二円等の呼声高く先づ先づ皆様の御留守も農家は万々歳とも言へませう。唯色々の物資統制の中に交って肥料が配給制度に成った事は今迄と違って一寸不便を感じます。然しこれとて戦地に於て、食糧も無く、弾薬もまた無きあらゆる困苦欠乏に耐へて戦ふ皆様方の事を思へば、私達とてもあらゆる方策をめぐらしても耐えてゆかねばならぬことでせう。
次に皆様方の御武運長久をお祈りする祈願祭は、今も尚毎月十九日に厳粛に施行されて居りますが、能見神官殿が八宮神社の社前に報告申上げる勇士の御名は月々に依り時々変りが御座います。一月には高木君が、八月には権田重明君が晴れの凱旋をなされまして、嬉しい帰還報告をされ、亦五月には内田増蔵君の応召、権田愛作君の海兵団入団、六月には権田本市君の応召が御座いまして、新しく三君の御名が加へられました。広野の現在隊のお方は【5字墨塗】御座いまして、秋には杉田徳治、井上彦輔、栗原角男の三君が入営する事に成って居ります。
二月に行われた故宮田伍長の村葬は折柄の春雨に一入(ひとしお)の哀愁をそそる盛儀でしたが、其の後も在郷軍人や青年団や其の他一般の方々の墓参に、香煙るるとして絶える間も御座いません。
扨て皆様は長い伝統と歴史を持つ消防組が解散して、新しく防護団と合併して警防団を結成した事を御存知でせうか。
皆様もおそらく消防組居んたる御方が多う御座いませうか何時の間にか消防手を辞めさせられて新らしく警防団の辞令を受けて居られることを御承知ですか。去る七月にはこの新しい警防団を動員して初の防空演習が行われ可成りの成績を挙げました。
銃後の護りは愈々鉄筋コンクリートです。
皆様方の御留守中に亡くなられた方、生れた子供さんも数有りますが、それらは省いて此処にお婿さん二人を御紹介いたしませう。一人は下郷の権田亀太郎さんのお宅で静江さんの夫として長次さんと云ふ二十五才の青年を宮前村中尾から一月の下旬に迎へました。背の大きい立派な方です。第一補充兵です。もう一人は七月に亡くなられた永島廣吉さんのお宅でつえさんが、大岡村大谷から寅武さんと云ふ廿八才の方を迎へられました。左官屋さんで非常な腕のいい働き者だそうです。
九月九日、十日の二日間は広正寺に於て私達七郷村青年団の主催で五箇村連合仏教会後援の修養会が開かれました。私達は或ひは一週間の剣道練習会に身体を練り、今この修養会に精神を練り、かうして心身共に練りに練って銃後国防の完璧を期しているのであります。今宵は仲秋の名月です。澄み切った空に銀盆の如き名月が輝いています。おそらく皆様の上にも同じ光を投げかける月で御座いませう。かうしてじっとこの満月に魅入っていますとあおの歌の文句を思ひ出します。
月が鏡であったなら 遠い貴男の俤(おもかげ)を……と
長くなりますからこの位でペンを止めます。
呉れぐれも皆々様の御健康と御武運長久を祈上ます。

   比企郡七郷村青年団『青年団報』第2号 1939年(昭和14)12月