S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

どうでもいいけどフリーセル

2004年11月12日 | 時々プロフ
日常において、
まあ、困った
さて、どうしたもんだ
と、思うとき、

「どうでもいいけどフリーセル」

という時間があります、ワタクシ。
Winの標準でついてるカードゲームの、
あの「フリーセル」ですね。

「どうでもいいけどフリーセル」

まあ、ぽかんと集中しつつ、
こんなもんか、というとこまでやり、
はっはっは、無益な時間を使ったさと、
立ち上がる。

このときの「さて」が、
自分にとっては、けっこう重要だったりするわけで。
なんとなく、迷路が整理されるような「呼吸」に
自分が変化しているような気になってる。

そして、この「フリーセル」。
全体眺めて、方向性を考えて、
あせれば手づまりになることを考えつつ、
ぱぱぱぱぱと、カードが全て動く瞬間まで、
マウスでカードをあっちやったりこっちやったり。

そう、この一見無益な時間が、
自分の思考の整理のトレーニングをしているようなものなのか?

などと、ふと思ったり。

なんてことを思っていたりしていたのだけれど、
こんなサイトを見つけまして。

はっはっは、
同じようなことを考えている人はいるのだなあ、
などと思いつつ、
このフリーセルを障害児教育になぞらえてる文章なんぞを熟読。

まったくね、
なんか、どこか、「遊べない女」だぜ、
と思うなあ。
ゲームくらいねえ、単に「遊べ」よねえ。

suicaでGO!

2004年11月11日 | 時々プロフ

腰にミッキーマウスをつけて歩く変な女、S嬢です。

この腰につけたミッキーマウス、実はsuicaのケースです。
suicaとは、JR東日本のサービスで、
パスケースに入れたまま、改札機の読み取り部にタッチするだけで、
改札を通過できるカードです。

このケース、「表」はこんな感じです。
この、ミッキーマウスの上のキーホルダーの金具部分を
ジーンズの腰のベルト通し部分に引っかけます。
これで「腰にミッキーをつけた変な女」のできあがりです。

実はこのミッキー、キーホルダーの金具部分には、
1Mほど伸びるゴムが内蔵されています
改札を通るときは、顔をつかんで引っぱります。
そして「タッチアンドゴー」で、改札を通過後、
ミッキーの顔から手をはなすと、

ミッキーは、ゴムを中に巻き込んで、また、自動的に「腰」に戻ります。
別にミッキーが取りたてて好きなわけじゃありません。
同じもので、プーさんを持ってる娘がうらやましくなっただけです。
どちらかといえばキティラーですが、キティの同様の商品が見つかりません。

こうしてsuicaの定期券を腰につけ、
わたしは毎朝、電車で養護学校の中学部まで通う娘の
「半付き添い」「ほぼ尾行」を続けています。
「中学部」ですから、義務教育ということで、
かかる交通費は本人・保護者共に
「実費」として自治体から支援されています。
定期券は、「障害児の介護人」ということで、
通常の通勤定期の半額です。
定期券には「護」とプリントされ、
「介護人定期券」であると表示されています。

今、一番欲しいのは、
「後ろが見られる目」です。
改札で、わたしの後ろを通る人が、
「あっという間に腰に戻るミッキー」に
驚く顔が見てみたいです。
うふうふうふうふふ

よく行く「調べる」Webサイト5つ

2004年11月10日 | ○○さんにトラックバック!
「π氏の雑記(PCのジャンキー)」の
【TB企画】ブログ以外でよく行くWebサイト5つ■第2回かな?■
に参加です。

選んだ5つは、
「毎日行くわけではない」けれど、調べることに欠かせない
検索エンジン以外のサイトです。

1.相原コージ先生に捧ぐ
慣用句に関しての意味確認に使います。
ついでに調べようと思った周囲のものを読み込んでしまうこともしばしば。
同じ方作成の”ことわざ版”もあります。
金田一春彦先生に捧ぐ

2.70年代洋楽アーティスト・リンク集
’70年代洋楽に関しての入り口の宝庫です。
うろ覚えのことを調べるときに利用します。

3.アスキーデジタル用語辞典
「???」なことをここでかじる、さらに検索するときの材料にする、
という使い方をしています。

4.アマゾン
購入のため、というよりは、
関心を持つCDの情報や、書籍の出版情報を調べるためという利用が多いです。
CDに関しては、ここで調べてからヤフオクに行くことが多いし、
書籍に関しては、ここで調べてから、↓のサイトに行くことが多いです。
横浜市立図書館 蔵書検索

5.お薬110番 病院の薬がよくわかるホ-ムペ-ジ
「薬」に関して、確認したり調べたりするのに使います。
ただし、このサイトに関しては、
まず薬を処方した医師を信頼し、基本的な質問は薬を処方した医師に
これが前提で使われるべきものと思います。

番外にうたまっぷ
これはよく利用しますが、π氏の雑記本記事のコメント欄や、
TB記事にも出ていたので、「5つ」からはずしました。

以上、本文中に列挙したサイト全て、
「お気に入り」の中の「調べる」という名前のフォルダに入ってます。

尚、このTB企画主のπ氏の雑記(PCのジャンキー)は、
情報収集サイトのひとつとして、ありがたーい存在です。

わたしが選んだgooブログ

2004年11月09日 | ○○さんにトラックバック!
「むだづかいにっき」の第2回 あなたの好きなgooブログの投票に参加しました。
以下、投票した5つのgooブログと、投票の際に明記した一行コメント、
そして投票理由です。

1.BLOG版「新明解国語辞典を読む」
*しんかいさん、堪能
「新明解国語辞典」のファンです。
思考することのネタ本にもなるこの辞書はとてもおもしろいし、
その魅力を端的に少しずつ紹介していくこのブログは、
読み物として非常におもしろいと思っています。

2.80s洋楽クラブ
*タイトルが楽しみ(’70年代、誰か作って)
’80年代洋楽のタイトル曲にふれる部分と、個人の日常にふれる部分のバランスが絶妙です。
このブログを読んでいると、
そのタイトル曲に関わる自分の思い出を呼び覚まされたりします。
現在と、過去の自分などを考えたりしつつ、
ここで出されたタイトル曲の入ったCDを引っ張り出して聞いたりします。
’70年代の同様のブログが誕生することを望みたくなります。

3.良いカウンセラー悪いカウンセラーBLOG
*なかなか他では得られないニュースが読める
「メンタルヘルスや発達障害の関連ニュース」に関して、要約された形で読める。
興味深いものもありますし、全く関心の無いものもありますが、
個人がニュース性のあるものを要約して記事にするという部分では、
秀逸なのではないかと思います。

4.ねこまんま
*まっすぐに出てくる言葉がはっきりしていておもしろい
このブログは、「たったひとつのたからもの」でワード検索して見つけたものです。
母は強しって言うけれど…
「感動」という言葉がちりばめられた感想が書かれたブログが多い中で、
自分が障害児を我が子に持つかもしれない可能性に関しての不安が書かれていたのが目を引きました。
「感動」という言葉に隠されがちな「感想」を読み、他の記事を読み、
この方の、いろいろなことに対してストレートに出てくる視点に興味を持ちました。

5.恐妻組合
*面白いというには気の毒なドキュメンタリー
この方の送られている生活に関して、ご自身の思考や迷い等、いろいろあるのだと思いながら読んでいます。
ネット上に時々存在している、「書くことによるセルフ・ヘルプ」のひとつの形ではないかと思います。
それを「読む」ことで、「支援」したいと思うところです。

以上、全てROM専です。

尚、この企画の結果は、以下の通りでした。

第2回 あなたの好きなgooブログ 結果発表 その1
第2回 あなたの好きなgooブログ 結果発表 その2

むだづかいにっき「第2回 僕が選んだgooブログ」にトラックバックです。

「たったひとつのたからもの」:感動と日常

2004年11月08日 | たったひとつのたからもの
おととしのこと。
車に11歳ダウン症児娘と、障害というものは持ってない8歳の息子を乗せ、
所用の帰りにコンビニへ。
娘が降りないので、置いて出る。
(こうした時に、時々車の中で待ちたがる)

数分後、店のすぐ前に停めた車に戻る。

・・・車がロックしてある。

(しまった、キーを中にさしたままだ)

「ちぃちゃん!」

思わず大きな声を出したわたしに、
叱られたのかと思った娘が、
セレナの最後列のシートにあわてて移動。

「ちがう、ちぃちゃん。お願い、コッチ来て」
(運転席を指さす)

窓をきっちり閉め、ロックされた車の中に向かっての声なので、
自ずと大きくなる。
(もともと、声、でかい。。。)

「だいじょうぶよ、がんばって、
 お願い、だいじょうぶよ、コッチに来て」


叱られているのかいないのか、
怪訝そうな顔をする娘。

「お願い、がんばって、
 だいじょうぶよ、コッチに来て」


「おかあさん、どうしよう」 と息子。
「だいじょうぶよ、ちぃなら、きっと、できる。
 だいじょうぶよ」

(実は、母、大慌て、大焦り)
(でも、キーをさして出た自分がまちがいなく、悪い)
(瞬間、JAFも考える、でも、信じようよ)

運転席に移動する娘。

「ちぃちゃん、ココよ~、ココ」
(運転席ドアのロックを指す。多分、そこでいじったはず。)
(ただ、本人にその自覚、それを思い出す能力があるかは
 かなりアヤシイ)

「ちぃちゃん、だいじょうぶよ、
 ココよ~~、ココ」

(そのあたりにちょっと手を伸ばす)
(あきらめる)
(運転席を離れようとする)

「だいじょうぶ、がんばって、お願い、もう一度」
(また、そのあたりにちょっと手を伸ばす)
(あきらめる)
(運転席を離れようとする)

「だいじょうぶよ、だいじょうぶ。
 お願い、がんばって、お願い、もう一度」


くり返すこと、数回。

カチャ

「やった~~~~~!」 大騒ぎで手を取り合って喜ぶ母と息子。

「さ、行こうぜ~~~~」


後日、このコンビニで。
レジにいたバイトのお嬢さん二名、
目にお星様いっぱいの表情で、

「かんどう、しました~~~~~」

・・・は???

「この間、ずっと見てたんです。
 どうしようかってのも、言ってたんです。
でも、店長が、
『あのおかあさんに任せなさい』って。
『あれでダメなら、きっと何か言ってくるかもしれない、
 でも今は、もう少し、待ちなさい』って。
で、あいたんです! 車のドア!


「・・・あ、はい。」

「かんどう、でした!」

「・・・あ、はい。」 (おお、意味、了解)
「ありがとうね~~~。」

感動、なんです、かね。
感動、なんだろう、なあ。
そうか、感動、かあ。

という、ある日のお話。

感動?

いや、それがどうのということでもなく、
感覚が、もう、よくわからない?
って感じ? かな?

いや、事件ではあったけど、
けっこう、日常。
あと、反省材料、かな?
自分への。

あとは、このコンビニが、
「単なるコンビニ」ではなく、
「レジの人と話すコンビニ」になったこと、かな?

「たったひとつのたからもの」:幸せとは

2004年11月07日 | たったひとつのたからもの
人の幸せは命の長さではない。

これが「たったひとつのたからもの」に流れるもので、
ドラマでも、大きなテーマになっていました。

これを、子どもに対して授業の教材で取り上げるという
サイトを見つけました。
興味があったら、是非、と思います。

シリウス/静岡教育サークル:道徳「たったひとつのたからもの」

これは「道徳の実践」というコンテンツのひとつで、
「たったひとつのたからもの」は、
生命尊重のところに位置していました。

ある障害を持つお子さんで、医療とのつき合いが切れず、
風邪を引くとその度に命が危なくなり、集中治療室に入る、
そういう繰り返しだったときに、
この子のおかあさんに聞かれたことがありました。

「つらい治療ばかり、続く。
 あの子は生まれてきて、幸せなの?」


以下、わたしが答えたことです。

「『あなたがいてくれてわたしは幸せ』って、
 誰かに思ってもらえることって、とても幸せなのだと思わない?
あなたがあの子がいてくれて幸せと思うのなら、
それはそれだけでも、あの子が幸せだということなのではないかと思う。」


障害を持つ子どもを生むということは、
幸せというものを考えるときに、
「相対評価」でとらえる幸せではなく、
「絶対評価」でとらえる幸せをを知り始めること、
そんな気がします。

「たったひとつのたからもの」:近隣とのつき合い

2004年11月07日 | たったひとつのたからもの
先日、居住している地域の、
地域福祉に関しての会議に出席してきました。
行政の福祉課や、社会福祉協議会、民生委員、
地域の福祉事業所や、施設協力医、
地域福祉のため拠点となる公的施設の職員、
自治会の会長、
こうした方々で構成される会議で、
「障害児を育てる生活」ということについて、
お話をしてきました。

質問が出たことのひとつなのですが。

近所でよく見かける、障害児がいる。
何かできたら、と思うし、気にかけてはいるのだけれど、
どうしていいかわからず、そのままになる。
どうしたらいいか。

以下、答えたことです。

会ったときに、見かけたときに、
「こんにちは」と言ってください。
とりあえず、(わたしはあなたに気づき始めている)というような、
そういう「あいさつ」をしてください。
ごく普通に「知り合っていくこと」から始めてください。
人が知り合っていくときに、
過度なものを最初からむき出しにされても困惑します。
「こんにちは」と言われれば、
(あれ、知り合いだったっけ)とも思いますが、
(自分たちのことを見ていた人かもしれない)とも思います。
これが、いわゆる「目立つ子」を連れた人の感覚かもしれません。


ダウン症の子どもが生まれて、
近所とのつき合い方に悩む人もいます。
どういう風に、自分が地域に「存在」すればいいのかわからない。
誰かに「ダウン症だ」とか言わなきゃならないのかと思うと
怖れを感じる。

ドラマ「たったひとつのたからもの」では、
赤ちゃんがダウン症だとわかった時点で、
父親が、庭に木でできた「塀」をたてていました。
「外から見えないようにしなければ」と。
極端な例だとは思いますが、
ふって湧いたような「障害児の親」という立場に
誰もが困惑するところから始まるのは同じです。

その時に、全てを変えていく魔法の言葉というのが
「こんにちは」だと思うのですよね、わたしは。
人と人が知り合っていくときに、
理由自体が頭でっかちになっていっては、不自然になる。
必要なのは、まず、知り合おう、知り合いたいと思うこと、かなと。
「こんにちは」というのは、実に便利な言葉ですね。

なんとなく視線が行き、
なんとなく、目が合ってしまう。
こういうときに、「こんにちは」というのが
口をついて出てくるダウン症者は多いですね。
見られるということに対して、挨拶をする。
教えられることは多いと思う。

ドラマ「たったひとつのたからもの」では、
家の回りに「生きた匂い」がしないのが、
残念といえば、残念だったかな、とも思いました。

「たったひとつのたからもの」:ドラマ展開と危惧

2004年11月06日 | たったひとつのたからもの
ドラマ「たったひとつのたからもの」に関して、
ダウン症の親向けに書いた文章をご紹介。
メーリングリストや、掲示板に書いたものです。

*掲示板*
あの「先輩ママ」の役は、ストーリー展開のため、
視聴者に対しての、ダウン症コマーシャル展開的役割のため、
そうしたセリフ展開のために用意された役で、
リアルな人間とは、言い難いと思う。 

「わあ、ダウンちゃんだ」→ダウン症のダンス教室のシーン
「姉です~~」→明るい先輩ママと仲良くなるという展開
「みんな社会で活躍しているのよ」→ノスモを見せるための展開
「うわ~~ん」→母親が先輩ママに意見するほど成長したというシーンの展開

はいはい、よくわかりますねえ、と言いたくなるが、
いわゆる「小さい子の親」が、アレをどう見たか、
最も心配になる「人物」であり、危険。

だいたいね、相手の子の合併症の有無も程度もろくに聞かずに、
手術不能の子の親に、
「今はみんな長生きしてるのよ」はないだろう?

でも、しょーがないの、
ドラマ展開のために必要な役だから。


*メーリングリスト/1*
小さいお子さんのご家庭、だいじょうぶですか?
あのドラマの中に出てくる「先輩ママ」の言動は、
かなり乱暴な箇所、いくつかありましたしね。
短時間のドラマ展開のために出てくる役なので、
仕方がないといえば、仕方がないのですが。


*メーリングリスト/2*
わたしがドラマの中の、
「先輩ママ」の言動が乱暴だと言ったことですが。

まず、主人公夫婦に対して、
子どもを外の集団に目を向かせることを
急がせ過ぎることです。
おずおずと外に出ている様子というのは、
たいがい、見てすぐにわかるはずです。
そこで、「ダウンちゃん」と大騒ぎしたり、
急にダウン症児・者の集団に強引に引っぱっていったり。

ドラマの展開として、必要な役回りだったのだと思いますが、
赤ちゃんのママに対して、
あれは乱暴過ぎます。
赤ちゃんのママに対してするべきことは、
まず「聞く」ことです。

まず「聞く」という態勢を持っている人の前で
「話す」ということを経験しているか、していないか。
これはとても大切なことだと思います。
これを経験していない人が、
自分の意志にかかわらず、
いきなり「外に引きずり出される」ことは、
人によっては、かなりの恐怖です。

父親役が、かなりきつい顔で、
ダウン症のダンス教室の光景を見ていましたが、
あれは現実にああいう状態になったところで
出てきた表情だとしたら、
「父親の持つ偏見と差別の視線」ではなく、
乱暴なアプローチによって起きる「被害」です。
見学というのは、あくまでも、
本人たちの自然な意志が必要だと思いますし、
その意志が育っていないならば、
その前の段階に、ていねいにつき合うことが
正しいアプローチだと思います。

ダウン症と告知されること、
これは、どんな医師にどんな風に言われるか、
人によって、経験の色に差があると思いますし、
子どもの生が始まるというときに、
とても重要な意味合いが出てくると思います。
そして、最初に出会うダウン症児の親も、
どんな親に会うかということが、
かなり重要な部分が出てくると思います。
最初に出会った方が乱暴だったために、
混乱におちいる人も、現実には存在します。
この場合は、
まず、ていねいに、この混乱を解いていかなければ
ならなくなります。

あのドラマの中で、あの「先輩ママ」は
相手の子の合併症の程度、状態も聞かず、
「長生きしている人は多い。社会に出ている人は多い」と話す。
しかも、実際に自分の子が活躍しているところを
見せながら。

ドラマですよ、
実際だったら、そんなこと、考えられませんよ。
手術が不可能だと言われている子の親に
「みんな長生きしている」と話す。
そして、そのことを、あのドラマの「母親は」
主治医に「わたしも希望を持てるのか」と話す。
「先輩ママ」の無神経な言動により、
幻想を持たされるのと同じですよね。
そして言い渡される。
「いいえ、あなたのお子さんの余命は
 どんなに長くても十年は超えない」

ドラマだから、あの程度で済みますが、
普通だったら、とんでもないことですよ、
あの先輩ママの無責任な言動により、
崖から突き落とされたような心境になることでしょう。

あのドラマの脚本の、あの役は
「先輩ママ」とは名ばかりで、
ドラマの展開のための、説明的なセリフばかり渡されている、
「見ている人に対してのコマーシャル的役割」ばかり
担わされていましたね。

それを、単純に
「大きな子の親」ととらえて見ていたら、
大変だよ、と思うのが、わたしの危惧です。


ま、「乱暴」というか、
この先輩ママのやること「早い」んですよね、全ての展開が。
限られた時間内に、かなりいろいろな内容を詰め込んでありましたから、
こういう役回りが出てくるのは仕方がないだろうと。
むしろ、こういう役回りがあったからこそ、
ダウン症のダンス教室の様子や、ノスモの光景、
「ダウン症はけして短命ではないのだ」という説明等、
啓蒙的な内容が、ドラマの中に仕込めたのであり、
その内容が、一般の方々の記憶の中に、
いい意味で残っていくのを期待したい気持ちがある。

ただ、ダウン症児の家族が見ていた場合、
「ダウン症の親歴」や、その人の状態で、
「ああ、コレはドラマだからね」と、簡単になる場合と、
そうでない可能性を生んでしまう場合がある。
この先輩ママについていけないことを
自分に向かってマイナスにとらえてしまう人がいたり、
大きな子の親を必要以上に怖がったり、
そういう可能性が生まれるのではないかという危惧が、
見ていてあったなあというのが、わたしの実感でした。
それが「視聴者の感動」の裏の現実かもしれません。

最後に、
数年前に、「親の会の会報」というものに出したことがあり、
自分のHPにも載せている文章と、
HPのために作った文章を、
参考に、こちらに出しておきます。

「街でダウン症の人を見かけたら」

「ダウン症の赤ちゃんが生まれたばかりのご両親に」

「たったひとつのたからもの」:ダウン症児・者の持つもの

2004年11月04日 | たったひとつのたからもの
gooのサービスのひとつである教えてgooに行ってきました。
「たったひとつのたからもの」と入れて検索して出たもので、
こんなものがありました。

非常に好感を持ったのは「mach-mach」さんというIDの方のものです。

ふうむ、んんん、ねえー、

と思うのは、「titikun」さんというIDの方のもの。
記述されている「専門家」「自信:あり」の部分。
だからね、
「自信のある」「専門家」という人との
おつきあいが、時々、難しいってとこがあるのですよ。
その象徴のような気が、ちょっと。

そして、わたしも回答を入れることにしました。
質問の本文中のこの部分、

タイトルの通りご覧になる方によっては失礼な内容の質問です。
以下をご覧になるかどうか判断して、感情的な回答はご容赦ください。

この部分を尊重し、あくまでも客観的な回答として入れようと思いました。
この質問を感情的にとらえるか否かということではなく、
この質問をされた方の素朴な疑問が、納得できるように。
そして、この質問からこの方が、
「その先」を考えるヒントを仕込むことを、
当事者主観からできるだけ離れたところで考えながら。
「mach-mach」さんというIDの方が出されたとてもいいところと、
あえて重複を避けつつ。

回答のために、登録をするところからスタート。
さて、わたしが入れたのはどれでしょう。







堂々と「自信あり」と入れ、
「良回答」で、20ポイントいただいて、
この質問の回答は締め切られました。

「たったひとつのたからもの」:知的障害者の社会参加

2004年11月02日 | たったひとつのたからもの
gooブログのサービスであるブログ検索
「たったひとつのたからもの」と入れた結果は、
11月2日夕刻現在、408件です。
コツコツと読みつつ、まだ読破できていません。

「たったひとつのたからもの」
そのドラマの中に仕込んであったのは、
ダウン症児の「子役」と、
ダウン症児・者の「ダンス教室での姿」と、
ダウン症者の働く姿として出てきた「ノスモ」ですね。
実在する店と、実在する「店長」とで、
ドラマの中に仕込まれた「ドキュメンタリー」ではあったのですが、
このシーンをどう見るか、
視聴者の判断にゆだねられている部分だと思います。

いろいろな方のブログでの感想を読んでいく中で
「子役」と「ダンス教室」にふれられているものは多いですが、
この「働く姿」に関して出てきていないのは、
(もしくは見つかっていないのは)、
とても残念に思います。
ドラマの中で出てきた、
とてもていねいな「いらっしゃいませ」という姿、
黙々と変わらずに働く姿が
感想の中に出てきて欲しかったかな、とは思います。

この光景は、ドラマの展開の「背景」として出てきていました。
知的障害の軽い重いということで、
彼らが社会に出たときに「何ができるか」という違いは、
個々であるのですが、
個々の個性に応じた社会参加の姿が
普通のドラマの背景シーンなどで使われるようになっていくことも
望みたいなとは思います。

働く姿といえば、
非常に残念なことがありまして。
何かの記事、タウン誌だったか、福祉関係の情報誌だったか、
忘れてしまったのですが、
自閉症の方がエスプレッソを淹れるコーヒー店があるそうで。
自閉症の方は、その障害からくる行動特性に、
「ある特定のことに強いこだわりを持つ」ということがあるのですが、
この方は
「毎回同じ味を淹れることにこだわりを持つ」ということで、
その味は、いつその店を訪れても、変わらずに絶品なのだそうです。

是非、行ってみたいものです。

「たったひとつのたからもの」:ドラマというものの効用

2004年11月01日 | たったひとつのたからもの
実話を元にしたドラマは、人々に何を残すのでしょう。
ドキュメンタリーは、人々に何を残すのでしょう。

昔、「小児病棟」という、
実話をもとにしたドラマがありました。
’80年の放送です。
[女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞 第1回優秀賞]
受賞作品のドラマ化で、桃井かおり主演、
視聴率が34.7%で長時間ドラマとして、
歴代ベスト4位(1970-2000)の記録を持っているドラマだそうです。
桃井かおりはこの作品で、
「ギャラクシー奨励賞」という賞も受賞しました。

わたしはこれを見ました。
衝撃を受けました。
原作本も読みました。

でも、子どもが生まれ、小児病院に入院し、
自分が「患児の親」として、病棟に入ったときに、
「あんなもんじゃない、
 あんなもんでは知ったうちには入らない」と思った。
今まで生きてきて、全く知らない世界があったのだと思った。

娘が長期の入院をしていたのは、
東京都立清瀬小児病院
この病院は、ドキュメンタリーの取材がよく入ります。
娘が退院したすぐ後に、
今は亡き逸見政孝の取材が入っていました。
ありがたいことに、主として取り上げられた手術は
娘と同じ手術で、
しかも担当医も執刀医も同じだった。
テレビカメラの取材で、その手術の詳細を映像で知ることができました。
テレビの取材が入ることで、
当事者さえも、より情報を得ることができるのだ、
とも思いました。

数年後、今度は木村拓哉の取材が入りました。
このときに、主として追いかけられたのは、
白血病の子でした。
闘病の中、子どもらしい様子や、いきいきとした様子が
脳裏に残っています。
番組では元気に終わりましたが、
その数年後、この子は亡くなりました。
視聴者は、このことを、知らない。
でも、この番組を見た人の中には、
この子が生き続けているかもしれないと思うと、
うれしい気持ちにもなります。

「感動」を商品にするものはいらない。
「涙」を娯楽にするものはいらない。

でも、丁寧に作られた番組ならば、
番組というひとつの題材を、
「知っている人」と「知らない人」の橋渡しとして
ほんの少しでも、使うことができるのかもしれない。

もう少し、もう少し、
高視聴率を記録した「たったひとつのたからもの」というドラマ、
これが人の中に残したものを
さぐっていたいと思っています。

*写真は、今日の娘の登校風景。
 むろん、隠し撮りです。
この後、一人のご婦人が 娘に一声かけ席をを詰めさせて、
娘の隣に座りました。
「普通に」扱っていただいている光景を
遠くで見ていた朝でした。