実は。
わたしは子どもたちに対して、
「たからもの」という言葉をよく使うのでした。
何年も何年も前から。
息子に言うんですわ。
「わたしは、どこにも行かない、
入院してしまわない赤ちゃんが欲しかった。
あなたはずっとわたしのそばにいてくれた。
それだけでどんなにうれしかったか、わからない。
ありがとう。」
息子が生まれるまで、わたしは「病気」でした。
3~4ヶ月の月齢の赤ちゃんが、抱けませんでした。
ふっと抱くと、体がだんだんと緊張を始め、
胸の奥からこみあげるものがあり、
体が震え出すのがわかりました。
入院によって、娘を手元から手放したことの
精神的な衝撃の「後遺症」だったのだと思います。
抱くこともできず、
昏睡した姿を見ることしかできなかった頃。
心電図のモニター音が響き、管や機械に囲まれた姿の、日々。
抱きたかったのに、抱けなかった。
さわることすらできなかった日々もあった。
遠くの窓越しに見つめるしか無い日々もあった。
そんな時期のことを、体が、思い出してしまう。
息子を生んでから、やっと治った「病気」でした。
生後一ヶ月で入院し、
生死の境をさまよい、
半年以上も戻ってこられなかった第一子。
子どもを生んだばかりの「母親」という動物的な感覚が、
「赤ん坊が入院した」とはとらえずに、
「赤ん坊を取り上げられた」と動いていました。
娘が回復しても、退院しても、
何事も無かったかのように、育っていっても、
3~4ヶ月の月齢の赤ちゃんを、ふっと手に抱いたときに、
この時の「取り上げられた悲しみ」が、
体の中から呼び覚まされるようでした。
退院という形で、やっと「取り返した」わたしの赤ちゃん。
でも、そこからまだ数ヶ月の間、
「病院からの預かりモノ」という意識が消えませんでした。
「これ以上の回復は、入院していても望めない」
「今後、何度も入院する可能性を覚悟していてください」
そう言われての、やっとの退院でした。
(ここでヘマしたら、また取り上げられる)
病院からの指示の投薬の時刻と薬の種類を壁に貼り、
病院からの指示通り、強心剤を飲ませる前に、
病院から購入した聴診器で慎重に娘の一分間の心音を数え、
そうやって、なんとか、
自分の手元に置くことを必死に維持しているような状態でした。
強心剤、利尿剤、抗生剤、気管支拡張剤、
数種の薬の投薬の時刻もばらばらだった。
ミルクは病院の売店で購入した「腎臓心臓疾患児用低塩分ミルク」でした。
「よくここまで回復させましたね、まるで別の赤ちゃんみたいだ」
そう主治医に検診でいわれたときに、
やっと、「取り返した」ような気がしたものでした。
結局、宣告されていた「再度の入院」はありませんでした。
術後の検査のための入院以外は。
「やっと、取り返した、わたしの、たからもの」
これが、今、13歳の上の子。
先天性心疾患を持って生まれた、ダウン症と告知を受けた上の子。
そして、生まれてから、どこにも行かなかった、今、10歳の下の子。
「ずっと、そばにいてくれた、わたしの、たからもの」
このフレーズは、息子にとって、
どこか聞き慣れていたものでした。
そんなに「安く」言ってたわけではないけれど、
それでも、言ったことがあるのは、一度や二度じゃなかったと思う。
「たったひとつのたからもの」を見ていて、
心疾患とダウン症の告知を受けるシーンがある。
ご両親の心痛は、いかばかりかと思う。
でも、わたしは、嫉妬しました。
「それでも、連れて帰れたじゃない。
わたしはその日、赤ん坊と引き替えに、
入院のための書類を渡され、
自分と赤ん坊を引き離すための書類にサインをし、
なま暖かい、まだ体のぬくもりが消えない服を手渡されて、
それを抱えて、とぼとぼと、ひとりで、帰った」
身勝手な嫉妬なんですけどね。
所詮、根治手術が可能な、健康を手に入れられる心疾患なんですけどね。
こんな嫉妬は、お門違いなのは、
じゅうじゅうわかっているんですけどね。
でも、わたしは、嫉妬しました。
一度目に見たときは、思っただけだたんですけどね。
ドラマの途中で寝た息子が「見たい」と言って、
「ちゃんと最初から見る」と言って、ビデオを流し、
そのシーンに来たときに、
わたしは思わず、口に出してしまいました。
一度目は、客観的に見ていることができた。
でも、二度目はこのシーンで来ましたね、
フラッシュバック。
震える声でね、口に出してしまった、息子の前で。
「でも、連れて帰れたじゃない」
息子が、はっとしたような顔をしました。
今まで、自分に向けられていた言葉の意味を、
どこか理解したような顔をして、
黙ったまま、すっと、涙をこぼしました。
そうね、
息子にとっても大きかったんでしょうね、
今回の「たったひとつのたからもの」は。
娘の入院の間、ベッドを並べ、
娘の一週間後に手術を受けた宗史くんは、
再び生きておうちに帰れることなく、旅立ちました。
手術から数週間後のことでした。
「娘が新しいものを見るときは、いっしょに見ようね」
そう、彼の遺影の前で、約束、したこと、
いつか、ゆっくり、話してあげようね、
と、息子を見ながら思いました。
わたしは子どもたちに対して、
「たからもの」という言葉をよく使うのでした。
何年も何年も前から。
息子に言うんですわ。
「わたしは、どこにも行かない、
入院してしまわない赤ちゃんが欲しかった。
あなたはずっとわたしのそばにいてくれた。
それだけでどんなにうれしかったか、わからない。
ありがとう。」
息子が生まれるまで、わたしは「病気」でした。
3~4ヶ月の月齢の赤ちゃんが、抱けませんでした。
ふっと抱くと、体がだんだんと緊張を始め、
胸の奥からこみあげるものがあり、
体が震え出すのがわかりました。
入院によって、娘を手元から手放したことの
精神的な衝撃の「後遺症」だったのだと思います。
抱くこともできず、
昏睡した姿を見ることしかできなかった頃。
心電図のモニター音が響き、管や機械に囲まれた姿の、日々。
抱きたかったのに、抱けなかった。
さわることすらできなかった日々もあった。
遠くの窓越しに見つめるしか無い日々もあった。
そんな時期のことを、体が、思い出してしまう。
息子を生んでから、やっと治った「病気」でした。
生後一ヶ月で入院し、
生死の境をさまよい、
半年以上も戻ってこられなかった第一子。
子どもを生んだばかりの「母親」という動物的な感覚が、
「赤ん坊が入院した」とはとらえずに、
「赤ん坊を取り上げられた」と動いていました。
娘が回復しても、退院しても、
何事も無かったかのように、育っていっても、
3~4ヶ月の月齢の赤ちゃんを、ふっと手に抱いたときに、
この時の「取り上げられた悲しみ」が、
体の中から呼び覚まされるようでした。
退院という形で、やっと「取り返した」わたしの赤ちゃん。
でも、そこからまだ数ヶ月の間、
「病院からの預かりモノ」という意識が消えませんでした。
「これ以上の回復は、入院していても望めない」
「今後、何度も入院する可能性を覚悟していてください」
そう言われての、やっとの退院でした。
(ここでヘマしたら、また取り上げられる)
病院からの指示の投薬の時刻と薬の種類を壁に貼り、
病院からの指示通り、強心剤を飲ませる前に、
病院から購入した聴診器で慎重に娘の一分間の心音を数え、
そうやって、なんとか、
自分の手元に置くことを必死に維持しているような状態でした。
強心剤、利尿剤、抗生剤、気管支拡張剤、
数種の薬の投薬の時刻もばらばらだった。
ミルクは病院の売店で購入した「腎臓心臓疾患児用低塩分ミルク」でした。
「よくここまで回復させましたね、まるで別の赤ちゃんみたいだ」
そう主治医に検診でいわれたときに、
やっと、「取り返した」ような気がしたものでした。
結局、宣告されていた「再度の入院」はありませんでした。
術後の検査のための入院以外は。
「やっと、取り返した、わたしの、たからもの」
これが、今、13歳の上の子。
先天性心疾患を持って生まれた、ダウン症と告知を受けた上の子。
そして、生まれてから、どこにも行かなかった、今、10歳の下の子。
「ずっと、そばにいてくれた、わたしの、たからもの」
このフレーズは、息子にとって、
どこか聞き慣れていたものでした。
そんなに「安く」言ってたわけではないけれど、
それでも、言ったことがあるのは、一度や二度じゃなかったと思う。
「たったひとつのたからもの」を見ていて、
心疾患とダウン症の告知を受けるシーンがある。
ご両親の心痛は、いかばかりかと思う。
でも、わたしは、嫉妬しました。
「それでも、連れて帰れたじゃない。
わたしはその日、赤ん坊と引き替えに、
入院のための書類を渡され、
自分と赤ん坊を引き離すための書類にサインをし、
なま暖かい、まだ体のぬくもりが消えない服を手渡されて、
それを抱えて、とぼとぼと、ひとりで、帰った」
身勝手な嫉妬なんですけどね。
所詮、根治手術が可能な、健康を手に入れられる心疾患なんですけどね。
こんな嫉妬は、お門違いなのは、
じゅうじゅうわかっているんですけどね。
でも、わたしは、嫉妬しました。
一度目に見たときは、思っただけだたんですけどね。
ドラマの途中で寝た息子が「見たい」と言って、
「ちゃんと最初から見る」と言って、ビデオを流し、
そのシーンに来たときに、
わたしは思わず、口に出してしまいました。
一度目は、客観的に見ていることができた。
でも、二度目はこのシーンで来ましたね、
フラッシュバック。
震える声でね、口に出してしまった、息子の前で。
「でも、連れて帰れたじゃない」
息子が、はっとしたような顔をしました。
今まで、自分に向けられていた言葉の意味を、
どこか理解したような顔をして、
黙ったまま、すっと、涙をこぼしました。
そうね、
息子にとっても大きかったんでしょうね、
今回の「たったひとつのたからもの」は。
娘の入院の間、ベッドを並べ、
娘の一週間後に手術を受けた宗史くんは、
再び生きておうちに帰れることなく、旅立ちました。
手術から数週間後のことでした。
「娘が新しいものを見るときは、いっしょに見ようね」
そう、彼の遺影の前で、約束、したこと、
いつか、ゆっくり、話してあげようね、
と、息子を見ながら思いました。