S嬢のPC日記

2004年から2007年まで更新を続けていました。
現在ははてなで活動しています。

「たったひとつのたからもの」:幸せとは

2004年11月07日 | たったひとつのたからもの
人の幸せは命の長さではない。

これが「たったひとつのたからもの」に流れるもので、
ドラマでも、大きなテーマになっていました。

これを、子どもに対して授業の教材で取り上げるという
サイトを見つけました。
興味があったら、是非、と思います。

シリウス/静岡教育サークル:道徳「たったひとつのたからもの」

これは「道徳の実践」というコンテンツのひとつで、
「たったひとつのたからもの」は、
生命尊重のところに位置していました。

ある障害を持つお子さんで、医療とのつき合いが切れず、
風邪を引くとその度に命が危なくなり、集中治療室に入る、
そういう繰り返しだったときに、
この子のおかあさんに聞かれたことがありました。

「つらい治療ばかり、続く。
 あの子は生まれてきて、幸せなの?」


以下、わたしが答えたことです。

「『あなたがいてくれてわたしは幸せ』って、
 誰かに思ってもらえることって、とても幸せなのだと思わない?
あなたがあの子がいてくれて幸せと思うのなら、
それはそれだけでも、あの子が幸せだということなのではないかと思う。」


障害を持つ子どもを生むということは、
幸せというものを考えるときに、
「相対評価」でとらえる幸せではなく、
「絶対評価」でとらえる幸せをを知り始めること、
そんな気がします。

「たったひとつのたからもの」:近隣とのつき合い

2004年11月07日 | たったひとつのたからもの
先日、居住している地域の、
地域福祉に関しての会議に出席してきました。
行政の福祉課や、社会福祉協議会、民生委員、
地域の福祉事業所や、施設協力医、
地域福祉のため拠点となる公的施設の職員、
自治会の会長、
こうした方々で構成される会議で、
「障害児を育てる生活」ということについて、
お話をしてきました。

質問が出たことのひとつなのですが。

近所でよく見かける、障害児がいる。
何かできたら、と思うし、気にかけてはいるのだけれど、
どうしていいかわからず、そのままになる。
どうしたらいいか。

以下、答えたことです。

会ったときに、見かけたときに、
「こんにちは」と言ってください。
とりあえず、(わたしはあなたに気づき始めている)というような、
そういう「あいさつ」をしてください。
ごく普通に「知り合っていくこと」から始めてください。
人が知り合っていくときに、
過度なものを最初からむき出しにされても困惑します。
「こんにちは」と言われれば、
(あれ、知り合いだったっけ)とも思いますが、
(自分たちのことを見ていた人かもしれない)とも思います。
これが、いわゆる「目立つ子」を連れた人の感覚かもしれません。


ダウン症の子どもが生まれて、
近所とのつき合い方に悩む人もいます。
どういう風に、自分が地域に「存在」すればいいのかわからない。
誰かに「ダウン症だ」とか言わなきゃならないのかと思うと
怖れを感じる。

ドラマ「たったひとつのたからもの」では、
赤ちゃんがダウン症だとわかった時点で、
父親が、庭に木でできた「塀」をたてていました。
「外から見えないようにしなければ」と。
極端な例だとは思いますが、
ふって湧いたような「障害児の親」という立場に
誰もが困惑するところから始まるのは同じです。

その時に、全てを変えていく魔法の言葉というのが
「こんにちは」だと思うのですよね、わたしは。
人と人が知り合っていくときに、
理由自体が頭でっかちになっていっては、不自然になる。
必要なのは、まず、知り合おう、知り合いたいと思うこと、かなと。
「こんにちは」というのは、実に便利な言葉ですね。

なんとなく視線が行き、
なんとなく、目が合ってしまう。
こういうときに、「こんにちは」というのが
口をついて出てくるダウン症者は多いですね。
見られるということに対して、挨拶をする。
教えられることは多いと思う。

ドラマ「たったひとつのたからもの」では、
家の回りに「生きた匂い」がしないのが、
残念といえば、残念だったかな、とも思いました。