“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

歩兵第四連隊と陸軍幼年学校

2013年05月04日 06時00分19秒 | 蜂助の呟き

こんにちは、蜂助です。

この桜は「御衣黄(ぎょうこう)」という品種で、大阪造幣局から1976年に株分けされ東北造幣局の寮に移植されました。寮の廃止により榴岡公園に移されましたが公園内にはこれ1本だけしかありません。今が満開ですが、5月2日に撮影したものです。今後、少しピンク色っぽくなるそうです。

仙台駅から東に2キロ弱行ったところに榴岡公園がありますが、ここにこれがあります。

1874年に建てられた宮城県内最古の洋風木造建築です。この建物は、現在は、仙台市歴史民俗資料館になっていますが、戦前は歩兵第四連隊の兵舎でした。戦後はアメリカに接収されキャンプ・ファウラーとなっていました。この建物は現在は1棟しか残っていませんが12棟あって2000人の兵士が生活していました。

歩兵第四連隊が初めて国外に派遣されたのは1884年(明治17年)でした。150人が朝鮮の公使館警備のために派兵されましたが、甲申事変という朝鮮での内乱の警備を口実にしていました。当時、朝鮮は清国に支配されていましたが、自主独立させようという日本軍の意図の元に介入したものと言われています。この事変で歩兵第四連隊も清国軍、朝鮮軍と戦いたくさんの殺人を行ったと同時に日本軍も戦死者を出しました。その戦死者を祀った石碑も榴岡公園にあります。

その後、1910年に日本は朝鮮を併合しますがその足掛かりになったともいえる甲申事変への介入が仙台にあった歩兵第四連隊の海外での初仕事だったのです。血塗られた歴史を持つ榴岡公園です。

自民党とその取り巻きは国防軍を作りたがっていますが、また同じ歴史を繰り返すつもりでしょうか。

この地の隣接地に仙台陸軍地方幼年学校がありました。現在は仙台市立宮城野中学校になっています。ここで陸軍の超エリートを養成していました。13~15歳の子どもたちを定員50人という少数精鋭で軍国教育をしていました。全国に6校しかないくらいの英才教育の場でした。

この榴岡公園に、世界的にも有名な佐藤忠良(絵本、大きなかぶの作者です)のブロンズ像があります。平和のシンボルです。

「ブーツの娘」 世界最初の民間ユネスコ協会が1947年に仙台に誕生したことを記念して1984年に建立されたものです。ユネスコ憲章には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」との精神があります。 安倍首相をはじめ自民党とその取り巻きの心の中はどうなっているのでしょう。

そして、この娘の見つめる先には、旧日本軍の中枢のひとつ仙台市青葉区青葉山の旧陸軍第二師団司令部がありました。

 

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