三笑会

三笑会は、平成30年6月1日~陶芸活動と陶芸教室、喫茶室、自家野菜販売、古美術・古物商経営を総合的に活動していきます。

「またまたゲット」

2020-11-27 18:57:56 | 日記
「またまたゲット」

 27日、快晴のコート・ベール徳島で開かれた「第17回桑野健康ゴルフコンペ」において、私はNET77.2で13人中10位となり、飛び賞ということで写真の「のべの肉」をゲットした。スコアは大したことがないものの、どういう訳か賞品のある順位に収まってしまう。



「公文書公開請求書」

2020-11-26 21:56:04 | 日記
「公文書公開請求書」

 小休止の後、新しい担当者が加わり県警側は3人となった。新しい担当者は、「犯罪捜査規範に基づき申請してもらっても、県警にはそれに文書で答えることはしない。また、捜査情報を公開することは徳島県警ではしない。なぜ答えることができないのか、それは、捜査情報は情報公開請求から最初から制度的に除外されているからだ。どうしても情報開示できない理由を公文書で示して欲しいのなら、徳島県情報公開条例に基づいて「公文書公開請求」をしてもらいたい。」と説明する。
 私と賀上さんは新しい担当者の説明に同意し、写真の「公文書公開請求書」を県警担当者の教示に従い、写真のように提出して受理してもらった。「捜査情報を開示できないので本日持参していただいた申請書はお持ち帰りください、もしも県警が受け取るとしたら資料としてコピーで受け取りたい」と前からの担当者が繰り返すので、「全国に存在する875名の特定失踪者のご家族のためにも、活動の証としてお受け取り願い、県警本部長に手渡して欲しい」という旨の発言を繰り返し、結局、申請書原本を徳島県警本部に置いてきた。
 後は、条例に定められた日数を経て賀上さん宅に「公文書不開示決定」を伝える公文書が送られてきて、そこに不開示とした理由が明記されてくる。覚えているうちに書き留めておきたいと思い筆を走らせた、概ねこんなやり取りであったと思う。



「県警本部長に申請書」

2020-11-26 21:00:40 | 日記
「県警本部長に申請書」

 11月26日付けで、賀上文代さんは徳島県警察本部長に対して次のような申請書を提出しようとした。「犯罪捜査規範(昭和32年7月11日国家公安委員会規則第2号)第10の3の規定に基づき、現在、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない行方不明者として捜査・調査して頂いている私の息子・賀上大助に関する捜査・調査情報について、文書でご通知下さいますよう申請いたします。」
 これに対し、応対した県警本部の担当者の説明を要約すると、「申請の趣旨は理解できるが、我々はこれまでに息子さんの情報については捜査に支障のない範囲で口頭により伝えてきているが、これを文書でお伝えすることは悪用されかねない懸念もあることからできない。本日ご持参いただいた申請書は受け取れないのでお返しする。」と繰り返す。
 私と賀上さんは、「申請書は県警本部長あてのもの、県警本部長に見せてもいないうちから、それを現場の担当者が受け取りを拒否することには納得できない。これは、県民(国民)の知る権利を一方的に否定する行為ではないのか。捜査情報を文書で回答できないということには同意するので、その理由を明記した公文書を貰いたい。」と繰り返した。
 こんな押し問答が1時間、私と賀上さんは、「この申請書を郵送していたら突き返すということはできないのと違うか」、「徳島県警が受け取ってくれないのなら、この申請書に理由説明を付けて警察庁に送り、警察庁から県警本部長に送ってもらうようにしたい」とか舌鋒を強めると、県警の担当者が中座したため小休止となった。写真は、申請書のコピー。



「徳島県警本部を訪問」

2020-11-26 18:40:05 | 日記
「徳島県警本部を訪問」

 11月26日の午後、私と賀上文代さんは徳島県警本部を訪れた。事前に連絡してあったので県警側の対応も素早く、1Fの相談室で2人の担当者に対して私から来訪の趣旨を説明した。
 9月の臨時国会における政府答弁書を根拠として、徳島県警察本部長の権限により、犯罪捜査規範第10条の3に基づき北朝鮮による拉致の可能性を排除できない行方不明者として捜査・調査している賀上大助氏に関する情報を文書によって開示して欲しい旨を伝えた。
 会議は2時間にも及んだことから内容を思い出すのも一苦労なので、これについては次回に回したい。写真は、県警本部前でマスクをしてポーズをとる賀上文代さん。



「やがて役に立つ」

2020-11-25 17:02:04 | 日記
「やがて役に立つ」

 全国的には「憂国忌」として有名な今日という日も、我が家にとってはここ数日を掛けて自宅の生け垣の刈り込みを行った後始末に追われた一日となった。
 刈り込んだ後の木の葉や小枝を集めて軽トラで畑まで運び、それを果樹と果樹の間に置き、やがてのこと肥料になれば儲けものという計算を立てて作業に励んだ。
 私が本当に子どものころ、60年くらい前までは畑で刈り取った草は牛のエサの一部となり、山で切り取った小枝は家事の燃料として役立っていた。生活や労働というものが循環することで営まれていたことから、ゴミとして廃棄することもなく、現代の生活よりも圧倒的に無駄を出さない生活様式であったと思う。
 昨今のゴミ事情や環境汚染を考えると、近代文明の発達はゴミの排出と環境汚染によって成り立っているといえる。生垣を刈り込んだゴミはやがて役立つが、自然に廃棄されたプラごみは生存を脅かす。