堺北民主商工会

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人間の自由とは?

2008年12月06日 17時23分52秒 | 世間の話
今日は哲学的な話を書いてみたいと思います。
テーマは「人間の自由とは?」
なぜこの様な話を書くかというと、最近、会員さんとの会話の中で、「自己責任」という言葉が頻繁に出て違和感を感じるからです。
この世間を覆う自己責任論が人間として本当に正しいのか?という事を掘り下げる事が目的です。

では本題に入りましょう。
まず自由という言葉を辞書で引いてみました。
「自由」・・自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。(大辞泉)

辞書にはこう書いてあるんですが、人間の自由をもう一歩踏み込んで考えてみると、意のままにと言いながら、人間は死や病、老い、そして食欲、排泄や性欲など生理的欲求からは自由になれません。
また、地球の重力や太陽からの熱など自然現象からも自由になれません。
だからすべての制約を排し、自分の意のままに振舞う事は絶対に出来ない・・、むしろ自由とは制約の中での制約への向かい方なのだという事です。

一方、当たり前ですが人間は動物の一種です。
ヒトという種が他の動物と一線を画すのは、上記の自然をその発展段階ごとにある一定のレベルで制御下に置くことにより、社会を形成して行った点にあります。
自然の中でヒトという種が自由に出来る領分を広げていったという事で、つまり今の日本や世界の社会も造り替えられた自然の一部だという事です。

しかし奇妙な事に同じ動物でも野にいる動物は自由に生きており、我々人間はそうでは無く非常に窮屈です。
自由になる領域を広げたはずなのに、逆に窮屈に生きている上に、本来悲しむべき同胞の不幸を「自己責任」と言って切り捨てるような社会・風潮を形成している…これは何故だろう?
実に興味深いテーマだと思いませんか?

一歩話を戻し整理してみるとこの問題は次の様になります。
人間としての自由とは、人間は社会から離れられないので、社会という制約、媒介の中での自由とは何なのか?という問いかけになるのです。

人間社会は経済的力関係が原因となり、様々な困難や矛盾があります。
これに対し、目を背け閉じこもる、無視する、逃げ出す、自己責任として切り捨てるなどといった行為は、一つの方法論ではあるのですが、それは形式的な意思決定の自由であり本当の自由にはなりえません。

では本当の自由とは何だろうか…?
社会が人間の不自由を生み出しているという事実を認識するならば、その形式が問題であり、その形式を作り変える様に努力するという生き方こそが自由を求めるという行為に他ならないのではないでしょうか?
よって過去の偉人の言葉を借りれば「自由は必然的に歴史的発展の産物である」(反デューリング論:エンゲルス)となります。

まとめましょう。
人間はかつて自然を歴史とともに支配下において社会を形成し自由を得ていきました。
しかし、その自由であったはずの社会が生産力の増大を原因として階級に分化し不自由を生み出しました。
この不自由の発生はほんの最近の話です、この1万年くらいの話でしょうか?
故に社会をかつて自然に対しそうしたように、作り変えればよい。
そうする事で人間は自由を取り戻すことが出来るという事なのです。

社会で起こる残念な出来事を何でも「自己責任」と言って何でも切り捨てる自由は長大な人類の歴史の中では一時的な物の見方です。
生き難き社会を作りかえる自由を民商の活動の中で皆で謳歌したいものです。

「自由」・・・歴史の中でヒトが見失ったもの、学べば見えるもの。

事務局:つ

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