サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

ラクシュマナを励ます会に入会しませんか(下)

2016-01-20 00:00:19 | 日記
真の信者は、いつも微笑んでいるはずです。
喜びが溢れ出ています。
その喜びこそが、彼が自らのうちにある神聖さを体験したという証なのです。
あなたが幸せで無いというのは、まだあなたがその神聖さを体験した事が無いからなのです。8/93p203

ポニョ:でも、多頭蛇さんといえば、ラーマの元もとの姿であるヴィシュヌ神が時々横になるベッド代わりの蛇も多頭蛇さんやぜよ。

ヨシオ:そうや。俺はその蛇の事を言ってるんや。その蛇の名前をセシャと言うんや。それが元々のラクシュマナの名前やったんや。この蛇はいつもヴィシュヌ神といて、二回この地球に人として生まれ変わっていると言われているんや。一回目はラクシュマナとして、二回目はバララーマとして。

ポニョ:バララーマって、確かクリシュナの兄弟やぜよ。一緒に子供の頃遊んだり奇跡を起こしたり、悪者をやっつけたりした中やぜよ。でもアルジュナが確かクリシュナの妹を誘拐して嫁にするように画策するようにクリシュナが入れ知恵した事に不満で、クリシュナと仲が悪くなったというエピソードがあるよな。ところで始めの話に戻るけれど、ラクシュマナはどうなったんや?夜も寝れないぐらい気になってるんやけど。

ヨシオ:ラクシュマナを励ます会のただのお茶汲みやのに、まだ気になってるんか?俺が最初に言ったインドで伝わっているカーラデヴァやドゥルヴァサの話は俺も作り話やと思う。でも今回のラーマヤーナのエピローグの話の中で最後にラクシュマナが登場するのが、アヨーディアの何千何万人もの人々もサラユ川に入り、ラーマと共にヴァイクンダに行き、ラーマと融合したいという願いを持っていたんやけれど、その人々の願いを聞き、そのために奮闘したのがラクシュマナやったんや。だからラクシュマナはラーマの横にいてラーマと共にサラユ川に入らなかったけれど、ラーマを心から慕う大衆たちと共に手を取り合って一緒にラーマの讃歌を歌いながらサラユ川に入って行ったんや。ラクシュマナこそは、本当の帰依者の鑑(かがみ)やったんや。自分だけの事を考えて、自分だけが神様の方に近づき、自分だけの霊性修行、自分だけが神さんに融合する事を考えるのではなく、全ての人々が神の方へ向く事を助け、全ての人々が神に融合する事を願っている、ラクシュマナってそういう人やったんや。つまり彼こそが俺たち帰依者の最高のお手本なんや。


今、求められているのは、ただラーマやクリシュナやサイの御名を唱えることではなく、困っている人にはだれにでも、「親愛なるお方! 何が必要ですか? おなかは空いていませんか? これをお食べなさい」と言って助けてあげることです。
皆さんの可能な範囲で食べ物を提供し、困っている人を助けるべきです。
両親が共働きに行っている間、多くの幼い子どもが通りをうろついています。
こうした子どもは多くの事故や危険にさらされています。
私たちは、そのような子どもを助け、危険や災難から守るべきです。
事故で怪我をする人たちもいます。
怪我人を病院に運び、治療とその他の必要な援助を受けさせるべきです。
貧しい人に親切にし助けなさい。
病気で苦しんでいる人に治療の援助と手段を提供しなさい。
弱っていて歩くことができない人に援助の手を伸ばしなさい。27/1/07

ポニョ:そうやったんか。感激したぜよ。宮沢賢治も、世界中の人々が幸せになって初めて自分達も幸せになる。と言ってたけれど、本当にラクシュマナって自分だけの事を考えずに、全ての人々の幸福と繁栄を祈りながらラーマに融合して行った人なんやな。

ヨシオ:だから、ババはラクシュマナを本当の愛の人やったと言っておられるんや。神は愛そのもの。愛を通じてしか神に近づくことは出来ないんや。普通の蛇だったラクシュマナも、特別な蛇になるために修行した動機は、全ての兄弟姉妹達の性格が良くなればええなと願って始めたやろ。ラクシュマナの動機が純粋で愛がいっぱいなんや。だから俺はこの事をポニョが自分で考えるべきことやって最初に言ったんや。全ての神を求める人の、真のバクタつまり霊性修行者の模範がラクシュマナなんや。ラクシュマナが、どうしてバラタやサトルグナのようにラーマと一緒にサユル川に入らなかったか?それを追求して行くと真の帰依者の生き方が見えてくるんや。霊性修行っていろんな人がやっているけれど、ほとんどの人は社会や世界で苦しんでいる人の事なんてあまり考えないやろ。ただ「世界が安寧になるように神様にお祈りします。」ぐらいやないか。もっと積極的にパレスチナの人々を支えるとか、東ウクライナの人々を支援するとか、日本やったら路上生活者におにぎりを持って行くとか色々やることがあるやろ。霊性修行って部屋の片隅に座って目を閉じて静かに座ったり、足を頭の後ろに回して変な格好して柔軟体操するんじゃないんや。霊性修行って世界中の人々の安寧を考え、自己の快適さを犠牲にして、全ての人々の幸せを願うための行為、そしてそれによって自分のエゴを小さくして行くのが真の霊性修行なんや。そういう全ての行為を神に捧げ、弱者への奉仕を通じてエゴを一歩一歩無くしていく事が、人を神の境地に少しずつ押し上げていくんや。しかめっ面の顔をして、部屋の隅に座って瞑想をするのが霊性修行じゃないんや。神様はラクシュマナのように全ての人々を愛し、ラーマと一緒にサユル川に入りたいという気持ちを犠牲にしてでも、人々と手を取り合って川に入って行ったラクシュマナのような帰依者を一番愛されるんや。だから、ラクシュマナは神の聖なる住処で、セシャとして他の誰よりも一番神様に近いところに自分の居場所を持っているんや。

ポニョ:訂正!

ヨシオ:なんやねん突然。

ポニョ:さっきのコメントを訂正!やっぱりラクシュマナを励ます会の会長になります。

ヨシオ:お茶汲みから会長に昇進ですか?勝手にどうぞ。

神は、信愛と完全な全託以外、帰依者から何も必要とはしません。
神は帰依者に、神聖な体、神聖な言葉、神聖な見方、そして、無私の行動を期待します。
帰依者がこれらを神に捧げるならば、神は自らを帰依者に与えます。
人の体と心と行いはいつも清らかでなくてはなりません。
そうであれば神はその人に引きつけられます。
神の恩寵は、さまざまな形の礼拝や儀式によって手に入るのではありません。
母親でさえ子どもが純粋な心を育てることを期待しています。
単に自分の胃袋を満たすために苦労することがいかに無益であるかを皆さんに気づかせるために、私はたびたび次の詩を紹介します。
おぉ、人間よ! 汝はただ腹を満たすために苦労している 。
汝はさまざまな分野の多くの知識を獲得する 。
神を忘れて 夜明けから日暮れまで世俗の知識と富を獲得することに、すべての時間を費やしていったいどれほど大きな幸福を得たのかと、汝自身内省し問うがよい21/10/04

何ものに対しても嫌悪する心が少しも無く、生きとし生けるものに対して常に親しく慈悲深いこと。
一切のものに内在する神聖を認めるとき、その人は、真の愛を持つ人といえる。6/85

このような真の愛を持つもののみが、人間と呼ぶに値します。
真の愛と徳を持たぬ者は、ただ人間の姿をしているだけです。6/01


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