サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

本当の私って誰?

2019-02-01 04:00:53 | 日記

ポニョ:墜落して行く飛行機の中でめちゃ面白い冗談を言ったら、笑ってしまうけど顔が引きつってしまうやろな。

ヨシオ:もちろんそんな状況の時は、神さんの名前を唱えながら肉体から離れるのが一番やけど、パイロットの集まりで神さんの事を言っても誰も聞く耳を持たないから、このようなジョークを言ったんや。

ポニョ:そうやったんか。でもあんたやったら言いそうやな。それはそうと、この前の記事のババの御言葉の中に、この世に何も実在するものはないのです。と言ってられたけど、でも神さんは実在するやろ。さっぱり意味が分からんぜよ。

ヨシオ:ババさんは「この世は、神さんが創造されたいろんな自然と、人と、その人が礼拝する神様で出来ている。それは大きなキャンパスに、絵の具で自然を背景に人と神が描かれているようなものだ。一見すると三つのものが別々に見えるけど、本当はキャンパスに描かれた絵の具しかなく、それらは一つなんだ」とおっしゃっている。

個我と神と物質世界を、絵に描かれたものと想像して御覧なさい。
物質世界を背景にして個我と神は描かれています。
同じ絵の具で書かれているにも関わらず、三つとも違う実態のように見えます。
これらは心の産物で実は価値を持たないのです。




ポニョ:つまり帰依者がいなければ神も存在しない、という意味での神様なんやな。創造主ブラフマンという意味での神さんではないんや。それならなんとなく意味が分かったたぜよ。

ヨシオ:この前言ったマーヤーの二つの力により、人は、自分も一緒にキャンパスに描かれた絵の世界に惹かれて行くんや。そして、その絵の世界である物質世界も、自分と同じ、絵の具で描かれた絵だというのを忘れて、その絵の中の登場人物としてキャンパスの中に囚われてしまい、マーヤーの餌食となるんや。

ポニョ:つまり、人は、自分も物質世界も、この世にある全てが同じ絵の具で描かれた絵だというのを忘れて、その絵の中に取り込まれてしまい、物資世界のゴタゴタに巻き込まれてしまっているんやな。

ヨシオ:創造主ブラフマンは、自らの意志の力、想念の力を使ってその絵を描いたんやけど、その絵に描かれた人も、創造主と同じ想念の力を持っていて、その力を使って絵の中に描かれている物質世界に魅了された物を手に入れようとするんや。

ポニョ:つまり、絵の描かれた人物が、同じキャンパスに描かれた物を、心と呼ばれている力を使って、絵に描かれた物を手に入れようとする衝動や何かをやり遂げようとする意思を持ち始めるって事なんや。絵の中の物を欲しがるってアホやぜよ。

マーヤーは真の本性を覆い隠す力と、真の上に非真を投影する力によって、唯一無二の存在であるブラフマンを個我、神、物質世界という三者に分かれた存在をとらせました。
マーヤーの力は潜在していますが、それが一度顕れる時は心として顕れます。
その時、物質世界という巨木の種子は芽吹き始め、心の衝動という葉を茂らせ、心の意思という果実をつけます。
従って、外界の全ては心の繁茂にすぎません。
個我と神は心の繁茂によって捕らえられ、物質世界の中で離れ難く絡み合っています。


ヨシオ:神さんから見たらアホに見えるやろな。

ポニョ:つまり、この世にはいろんな魅力的な物が周りにいっぱいあるけれど、それらは全て自分も含めて創造主が描かれたキャンパスの絵なんやな。そしてマーヤーの力は、人の心となって顕在化して、そのキャンパスに描かれた絵に対する心の衝動や意思となって現れて来て、人をこの世に縛り付けてしまうんや。そして自分の真の本性を忘れてしまうんやな。

外に見るものはすべて幻想に基づいたものです。
架空の世界に心を奪われないようにしなさい。
そうして初めて平安を得、ついには「私は私である」という真理を悟ることができます。25/12/03


ヨシオ:ポニョは俺よりきちんと理解してるやないけ。頭がクリア~やな。

ポニョ:髪の毛が薄くなって来ている分、叡智が頭に詰まっているんぜよ。

ヨシオ:髪の毛と叡智と関係ないやろ。以前紹介したけど、ババは学生たちにご自分を指差されて私は誰だと思うと聞かれたんや。
学生たちは、それぞれ自分たちが知っている限りの神さんの名前などを言って答えたけれど、全て外れやったんや。それでババは「私は『私』だ。」と言われたので何人もの学生たちが、その深い意味が分からずにババの答えを聞いて笑ったんや。

ポニョ:私は『私』です。って言えば誰でも笑うぜよ。でもその『私』っていう『私』は創造主ブラフマンの事やろ。世界には物質世界や人や八百万の神さんを創造した創造主ブラフマンしか実は存在していないって前にも記事にしたよな。だから、『私』の名前はブラフマン。創造主である。世界はブラフマンしか存在していないのだ。だから私は『私』なのだ。ワッハッハ。

ヨシオ:最後のワッハッハは何やねん。

ポニョ:自分で難しい事を言ってたら、マグマ大使のゴアになったような気分になったんや。

ヨシオ:だからこの前も言ったように、このマーヤーの二つの力は、夢を見ている時と、覚醒している時に働いているので、とても現実感があるんや。

ポニョ:自分が、同じキャンパスに描かれた絵の中の物に夢中になるぐらいやもんな。それぐらい素晴らしい絵なんや。特にオクラの絵が上手く描かれているな。

ヨシオ:なんで、ここでオクラが出て来るんや。でも人が、実は自分はキャンパスに描かれた物に夢中になっていたのだと気付くと、心の衝動や意志が消えてしまい、英知を得た人になってしまうんや。すると心として顕現していたマーヤーの力は何処かに行ってしまって、人は絵に描かれた人ではなく、その絵を描いてそれを眺めて喜んでいるブラフマンと一緒になってしまうんや。つまり私は『私』になるんや。

覚醒時と夢の中ではこれらは現実味があります。
しかし、熟睡時や気を失った時などは心は働かないので、これらは存在しません。
それゆえ、人が英知を獲得した時に心の働きが無くなり、これら三つは消滅してしまうことが容易に理解できるでしょう。
心の働きを分析して得られる英知のみが、マーヤーに終止符を打つことができるのです。
マーヤーは、無知や識別力が欠如しているところに繁殖します。JV


ポニョ:描いた絵の中の人物に、「君は絵の外に飛び出して来て、その絵を描いた私と一緒になりなさいよ」というのがババの教えなんやな。何や、簡単やんか。そんな事は誰でも分かるぜよ。

ヨシオ:自分が絵の中の人ではなく、絵描きなんだと気付く事は、誰でも可能なんや。

ポニョ:おいらが昔、バイクに夢中になっていた頃、スズキのオフロードとオンロード兼用のデッカイバイクが欲しくて、バイトをして金を貯めながら、毎日バイクショップへ行って展示してあるピッカピカのバイクを、ヨダレを垂らしながら眺めていたんや。ある日、そのバイクを買った人が整備点検にやって来て、待合室でそのバイクについて少し話したんや。
すると、直進安定性がロードバイクより悪いので高速では怖いとか、トンネルを出た時に横風が吹いていたら重心が高いのでかなり横に振られるとか、コーナーリングも安定性が無いのでロードバイクのように押さえが効かないとか、色々とそのバイクの悪口を言い始めたので、おいらは一度にそのバイクに対する興味が無くなってしまい、いったい今まで何の為に一生懸命バイトをして金を貯めて来たのか分からなくなったことがあるぜよ。

ヨシオ:確かに人の心ってそんなもんなんや。本当は人は、自分で自分の心なんてあっという間にコントロール出来るんや。サイババさんは、何か欲しい物が出来たりした時は、その欲しい物の欠点や短所を見つける努力をすれば、その物に対する欲望があっという間に消えると言われたけれど、そういうふうにすれば、確かに欲望はコントロール出来るよな。

ポニョ:おいらも心の衝動や意思は比較的コントロールし易いな。今日はカレーが食べたいなと思っても、台所で嫁さんが天ぷらを揚げていると、天ぷらの方が美味しそうやって思って、直ぐに食べたいと思っていたカレーを諦められるぜよ。

ヨシオ:あのね…。少しそれとは違うんやけれど…。俺が言いたかったことは、この世で見るもの聞くもの全ては絵に描いた餅なんや。だから、バイクであろうと天ぷらであろうと、恋人であろうと、親兄弟子供も含めて全て、それらを愛しているとか好きやとか言っても、絵の中に描いてある餅やから、永続するもんではないんや。
絵の具が剥げてきたり、埃をかぶったり、ネズミにかじられて絵が欠けたり、雨漏りがして絵が台無しになったりして、いずれは消えて行く運命なんや。だから絵の中に描かれたものや自分の身体を愛したり、執着したりするのではなく、永遠の愛を求めなければならないんや。その永遠の愛というのが絵描きへの愛なんや。つまりそれが本当の自分なんや。

この世の愛は一時なものです。
それは愛とは呼べません。
本当の愛は不滅です。
そのような愛を育てるべきです。
肉体は成長し衰えます。
一体どうやってそれを実在するものと見なすことができるでしょうか?
実際には、この世にあるものはすべて現実には存在していません。
迷妄の原因は肉体への執着です。
それゆえ、徐々に肉体への執着を減らしていきなさい。
これは、皆さんが始めなければならない一番大切なサーダナ(霊性修行)です。
ジャパ(神の御名やマントラを繰り返し唱えること)、タパス(苦行)、ディヤーナ(瞑想)、ヨーガ(神との交流)といったものは、真の意味でのサーダナ(霊性修行)ではありません。
皆さんが実在していると思っているものはすべて、実際には存在していません。
実際に存在していないものは、すべて手放さなければなりません。
まず第一に、この真理を理解しなければなりません。
肉体への執着を手放すことはとても簡単です。
どうして人々がそれをできないのか私には不思議でなりません!
25/12/03

ポニョ:この前においらはマーヤーって毛布見たいやって言ったやろ。今話を聞いていて、神さんっておいら達と隠れんぼしたいのと違うのんかなと思ったぜよ。だって神さんはいつも遊んでおられるやろ。何を話しても、何をされてもいつも遊んでおられるやんか。だからマーヤーを創られたんは、御自分は毛布の中に入って隠れておいて、人が英知を使って自分を見つけて欲しいなと思っておられるんやなと思ったぜよ。

ヨシオ:まさしくポニョが言った通りなんや。神さんは俺たちと隠れんぼをして遊んでおられるんや。でも、なかなか俺たちに見つけてもらえないし、長い間毛布の中に包まって隠れているのも退屈やし、ちょっと声を出したり歌ったりして何処に隠れているかを教えてくれているのがアヴァターなんや。

ポニョ:そのヒントを聞いて、やっと分かった。ここにおったんや。神様見っけた。と言って毛布をめくり取るとそこには自分がいたんやな。なんちゅうトリッキーな神さんや。笑ってしまうぜよ。


人間が目の前に見るものは、世界ではなく、まさしく神なのです。
しかし、無知ゆえに人間はこの真理を理解できず、外側の世界に神を探そうと努めます。
あなたが自分の前に見つけるものすべてが、まさに神の姿なのです。
あなたはすぐ目の前に神を見ているのに、まだ自分は神を探し当てていないと思っているのです。
何と愚かなことでしょうか!
あらゆるものが神の顕れであるという堅い信念を育てれば、あなたは確実にすべての人の中に神を見いだすことでしょう。16/3/03
神の存在を発見することは、各人の能力の範囲内にあります。
必要なのは、創造の神秘を追求するために努力することです。
目に見える世界の下には、目に見えない神性が横たわっているのです。
実は現代人が知っていることは、無に等しいのです。
探求、探求、探求です。確固たる努力を払いなさい。
霊的探求を緩めてはなりません。
認識に必要なのは、根本原因の原理を追求することです。
必要なのはそれに対する心の中の渇望です。
それは霊的探求へと変容を遂げます。
渇望が無ければ、神の探求は長続きしません。30/5/95
人間の理想とは、全てのものの内に神を見ることです。
まずあなたが好む何か一つのものの内に神を見なさい。
次に、それ以外のものの内に神を見ていきなさい。
そのようにして一歩ずつ歩んで行くのです。
あなたの魂の周りには、永遠の生命がとりまいているのです。
あなたのペースで進んで行けば、やがて目標に到達することができるでしょう。PD41

神は、生物・無生物の別なく、万物の内に存在しています。
大宇宙から小宇宙に到るまで、神は全宇宙に満ち満ちています。
この宇宙は、神の姿です。
朝から晩まで、私たちはこのような神の姿を体験していますが、この事実に気付くことができないでいます。
皆さんの眼で見ているもののすべてが神の姿なのです。
皆さんが聞くすべての音にも神が遍満しています。
皆さんの心にある思いさえも、神の姿です。
心から放射される至福もまた神なのです。
見えるもの、聞こえるもの、体験されるもの、喜ばれるもののすべてが神であるとき、それ以外の場所に神を探そうとするのは、何と愚かなことでしょう。
~皆さんは、世界という姿の神をした神を、毎瞬毎瞬見ています。
皆さんは、神聖な感情が欠けているために、世界を神として見るのではなく、神を世界として見ているのです。
いったん皆さんが宇宙はヴィシュヌ神の姿であるということを理解しさえすれば、必ず世界を神として見ることができるようになります。
『感じる通りの結果が生まれる』のです。
神は、全宇宙に遍満しています。
神がある特定の場所にいて、他の所にはいないという感じ方をしてはなりません。
神はいたるところにいます。
あなたが神を見つけようと思えば、どこを探しても、そこに神がいます。
まず皆さんは世俗的な思いを手放して、自分の視点を神聖な感情で満たさなければなりません。
そうして初めて、皆さんは、『全宇宙に神が遍満している』というヴェーダの教えを理解し、体験することができるのです。
神を特定の名前や姿に限定してはなりません。
神は、真我の原理として、すべての存在とすべての姿に内在しています。
実際皆さんは、神の力によって、見聞きし、話し、体験し、喜ぶことができるのです。
そうであれば、困難や、心配や、不幸もまた神であるのかという疑問が生じるかもしれません。
実は本当にそうなのです!
それらもまた神の姿なのです。 23/11/99

神を探す必要などないのです。
なぜ神を探すのですか?
それをするのは、自分自身の中に聖なるものが無いからではないですか?
自分の中に優しさがないから、どこかに愛の化身を求めにいくのでしょう?
もしあなたが優しい心を持っていたなら、愛の化身は私たちの前に下に上に家の中に外にと、いつも私たちと一緒にいるはずです。
その人自身が自らの内に持っているものを外に探しに行きますか?
あなたがそれを持っていないからこそそれを探しに行くのでしょう?
17/2/96









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