サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

クリシュナ物語(14)

2016-06-22 00:00:12 | 日記

ポニョ:先日も少し牧女や牧童の話をしたけれど、彼らは本当に心が純粋やぜよ。神の化身と一緒に過ごせる魂って、子供の心を持った純粋な人でないと無理なんやろな。

ヨシオ:見かけは牧女やけれど、前世はヒマラヤの洞窟の中で神を思って修行していたヨギや苦行者達なんや。

ポニョ:そういや、そんな話を以前記事にしたよな。髪の毛ぼうぼうでヒゲだらけのおっさん聖者が、初々しい若い女性の牧女に生まれ変わるってなんか変やなぁって。

ヨシオ:その時もポニョは興奮してたよな。以前、サイババさんの若かりし頃のお話を長い間連載したけれど、ババと一緒にいつも過ごして、遊び相手になっていた人たちは、クリシュナの元で過ごしていた牧女や牧童のような純粋な心を持っておられたよな。特にヴィジャヤ クマーリさんは今はもうかなりお年やけれど、今でもとても綺麗な瞳をされているし、その心の純粋さを全く失っておられないよな。

ポニョ:という事で、今日はその牧女たちのお話です。

牧女(ゴーピー)たちは、牧女たちだけで、帰依者の1つのカテゴリーになる程のお話になります。牧女たちは信愛のエクスタシーに到達しました。牧女たちはクリシュナ以外、何も意識にありませんでした。牧女たちは五感も肉体意識も放棄していました。牧女たちは体の中に住まうクリシュナの原理だけに執着しました。牧女たちは、「これ」を体験することではなく、「もう一方のもの」〔あれ〕を知ることを欲しました。聖仙シュカ〔聖仙ヴィヤーサの息子〕が牧女たちの素晴らしい物語と牧女たちのクリシュナへの愛についてパリークシット王〔アルジュナの孫〕に語っていた時、パリークシット王がその愛の性質について尋ねると、聖仙シュカは、「牧女たちは肉体意識を持っておらず、いつも神意識だけに浸っていたので、牧女たちの愛には、粗大なもの、物質的なもの、肉体的なものは少しもなかった」と答えました。自分と肉体を同一視すること、五感の奴隷でいることこそが、この世に蔓延する残酷さ、不正、暴力の一切を生み出しているのです。

シュリ クリシュナにとって愛しい存在であった牧女(ゴーピカー)たちは、どのようなタントラも知りませんでした。体はヤントラであり、呼吸はマントラであり、チッタ(心)はタントラです。呼吸のマントラとは何でしょう? 「ソーハム」〔私は神であるの意〕です。牧女たちの「クリシュナ! クリシュナ!」という叫びと想いが、「ソーハム」となったのです。牧女たちは、どんな仕事をしているときも、ずっとクリシュナの御名を唱え続けていました。牧女たちにとって、すべてはクリシュナで満ちあふれていました。

クリシュナといえば、ゴークラ〔クリシュナが子供時代に住んでいた村/ゴークラム〕と、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕と、ブリンダーヴァナ〔クリシュナがゴークラ村から引っ越した先/ブリンダーの森/ブリンダーヴァン〕という、3つの場所が思い浮かびます。それほどに、これらの場所とクリシュナは結び付いているのです。マトゥラーの都はハートです。クリシュナはマトゥラーの都に住んでいて、私たちがクリシュナの御名を唱えると、口であるゴークラ村へやって来ます。そこから、シュリ クリシュナは、善良な思考や歓喜に満ちた気持ちであるブリンダーヴァナに、遊び戯れながら入って来るのです。

ウッダヴァ〔ブリンダーヴァナを出て行った後のクリシュナの側近〕が牧女たちに英知の教えを施そうと考えてやって来たときのことです。牧女たちは言いました。

「大聖典に載っているような立派なことを、私たちに教えようとしないでください。私たちには1つの心(マインド)しかなく、その心はクリシュナでいっぱいです。私たちは、クリシュナ以外、どんなことにも興味はありません」

姑たちが騒ぎ立て、夫たちが刃物を研いで脅しても
牧女たちは口を割らない、揺るがない、心配しない、
本に刷られた絵のように、その心にはクリシュナが焼き付いている

(テルグ語の詩)

牧女たちはウッダヴァに言いました。

「誰にでも、言いたいように言わせておいてください。私たちの心には、クリシュナへの想いしか入って来ませんから。私たちは、あなたのように多くの心を持ち合わせていません。1つしかない心を、事あるごとに雑事に携わらせることはできません。ですから、私たちにあなたの教えは必要ありません」

同様に、皆さんは有益なことに心を集中できるようにならなければいけません。それはヨーガ〔神と合一するための行〕やヤグニャ(供犠)やダーナ(慈善)に転じるでしょう。

牧女たちは霊的な全託の秘訣を知っていました。牧女たちの礼拝は、取引をしようという意図によって汚されてはいませんでした。取引をし、利益を渇望する人々にとって、礼拝することすなわち見返りを得ることであり、彼らは1回いくらで満足を与える応唱をして参拝を売っています。彼らは雇われの使用人のようなものであり、やかましく給金や残業代やボーナス等々を求めます。彼らは自分がした奉仕(サービス)からどれだけ搾り取れるかを計算します。それとは逆の、家族の一員、親族、友人でありなさい。自分は神のものだと思いなさい。そうすれば、仕事はあなたを疲れさせず、もっとよくできるようにさせ、もっと満足感を与えてくれるでしょう。給金はどうでしょう? 神はあなたを至福の中にいさせるでしょう。これ以上何を求めることがあるでしょう? あとのことはすべて神に任せなさい。神はベストを知っています。神はすべてです。神を得ているという喜びは、十分な報酬です。これが人の幸せの秘訣です。この方向に沿って生涯を過ごしなさい。そうすれば、あなたが悲しい思いをすることはないでしょう。

ナ メー バクターハ プラナシヤティ
私の信者は決して悲しみを味わうことがない〔バガヴァッドギーター9章31節〕

とクリシュナは言いました。

ニーラジャーという花嫁が、男の牛飼い(ゴーパ)の家の嫁として、ゴークラ村〔クリシュナが住んでいた村〕に嫁いできました。花婿と義理の両親は、クリシュナとクリシュナの悪戯に対抗するようにと嫁に戒め、さらには、クリシュナには近づかず、あらゆる手段を講じてクリシュナを避けること、さもなければ酷い罰を与えると、嫁を脅しました。

それはゴーヴァルダナ・プージャーの日で、男の牛飼い(ゴーパ)と女の牛飼い(ゴーピカー)たちは皆、村境を越えてゴーヴァルダナ山への巡行と礼拝に行かなければなりませんでした。それは毎年祝っているお祭りでした。最も厳しい戒めを受けていたにもかかわらず、ニーラジャーもいっしょに行きました。ニーラジャーは、ラーダーとクリシュナがいっしょに踊っていて、それを熱心な牧女(ゴーピー)たちの一群が見入っている様子を、山の近くにあった花で覆われた東屋(あずまや)からこっそりと覗き見しました。ニーラジャーは目の前の神にすっかり心を奪われて、もはや以前のニーラジャーではなくなっていました。

別の日、ニーラジャーは、ヤムナー川の岸辺でクリシュナが竹の東屋(ヴァムシー・クンジ)の屋根から一節の竹を外して横笛を作っているところを見、さらにはクリシュナがそれを奏でた音さえも聞いたのでした! ああ、それは圧倒的な法悦でした! それは、この世でのという束縛から自らを自由するために物質的なしがらみを越えるようにと求める呼び笛でした。ニーラジャーは、もはや誰のことも気にしませんでした。ニーラジャーは神に狂った人となりました。実際、アクルーラ〔カムサ王の家臣〕がクリシュナをゴークラ村からマトゥラーの都へと連れて行こうとしたときに、一番最初に馬車の手綱をつかんで、馬車を後ろに引き戻そうとしたのは、ニーラジャーでした!

それから、ニーラジャーはそのせいで姑(しゅうとめ)に家から追い出され、カーストから外されました。村中がニーラジャーに後ろ指をさしました。ニーラジャーは日々を竹の東屋(ヴァムシー・クンジ)で過ごし、その心のすべては、自らの心の中に鎮座するクリシュナ神に定まっていました。

月日は流れ、ナンダも、ヤショーダーも、ラーダーも、この世を去りました。ニーラジャーは52歳になっていました。ある日、ニーラジャーは絶望的になって、クリシュナに祈りました。

「私はもう、この見放された人生に耐えられません。私の目は乾ききってしまいました。私の愛を青々と保つための涙は、もう一滴も残っていません。私のハートも急速に荒地へと変わりつつあります。来てください、ああ、神よ、来て、私を救ってください。私をあなたのもとに連れて行ってください」

クリシュナはその祈りを聞き入れました。

クリシュナはその切望に応えて、ニーラジャーの名を呼びました。その声はあまりにも甘く、ニーラジャーを新しい生命力で満たすほどでした。竹の東屋(ヴァムシー・クンジ)は神の栄光で芳しく香りました。クリシュナはニーラジャーのそばに来て、ニーラジャーの手のひらを自分の手の上に乗せました。

「何が望みですか?」とクリシュナは尋ねました。

「人生の目的は何ですか?」とニーラジャーは尋ねました。

「神に融合することです」

「では、私をあなたに融合させてください。でも、その前に、私の愛(プレーマ)があなたの愛に融合する前に、あなたが奏でる笛の音を少しだけ聞かせてください」

クリシュナは微笑むと、笛は持ってきていないからと、言い訳をしました。しかし、ニーラジャーの切望を見てとると、クリシュナは竹の東屋(ヴァムシー・クンジ)から一節の竹を引き抜いて適当な長さに折り、あっという間にそれを横笛へと変えてしまいました。クリシュナはニーラジャーを膝(ひざ)に乗せ、それはそれは美しく笛を奏でました。ゴークラ中が、いや、それどころか、世界中が、法悦の歓喜に浸りました。クリシュナが笛を吹くのをやめたとき、ニーラジャーは究極の至福へと到達し、もはやクリシュナと分離した限りある一人の牧女(ゴーピー)ではなくなりました。クリシュナは笛を脇に置き、私はもう二度と笛は吹かないと言いました。
クリシュナの叔母であった牧女ラーダーも、亡くなるときはニーラージャーのようにクリシュナの膝の上で、クリシュナが奏でる笛の音を聞きながら亡くなりました。彼女は自然と自然のものである神との間に、いかなる分け隔てもしませんでした。すべては神であり、すべてはクリシュナでした。ラーダーは、目覚めているときも、夢を見ているときも、熟睡しているときも、つねにクリシュナの存在を感じ、体験し、知っていました。神の手、足、目、顔、頭はあらゆる所にある、と『バガヴァッドギーター』でクリシュナが宣言した真理を、ラーダーは悟っていたのです。ラーダーの神への崇拝は「マドゥラ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神の甘美さを思って歌うナーマ サンキールタン〕の最高の模範です。


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