サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

クリシュナ物語(15)

2016-06-24 00:00:27 | 日記

ポニョ:昨日はゴーピーのお話をしました。もっといっぱいあるんやけれど、きりが無いぜよ。

ヨシオ:幼い頃のクリシュナと一緒に遊んだら面白かったやろな。それはそうと、ポニョはクリシュナのいろんなエピソードがある聖地巡りをした事があるって言ってたよな。

ポニョ:カンサが住んでいたカンサ城は今もまだあって、なんか恐ろしい雰囲気やったぜよ。外から見ただけやけれど、まだ中に人が住んでいるんやて。クリシュナが生まれた牢獄もまだ保存されてあるので見に行ったら、知らん人が来て、本当の牢獄はここと違うなんて言って違うところに連れて行かれたぜよ。ただの客引きなんやろか?人も多くてマトゥーラが静かな土地、静地って聞いてたけれど、賑やかな観光地みたいやったぜよ。

ヨシオ:静地の字が違うやろ。

ポニョ:水が干上がっていたけれど、クリシュナのオムツを洗った水場もまだあったぜよ。また、クリシュナがカンサを殺した後、水浴したヤムナ川のほとりのガートなども訪れたぜよ。生誕地にあった寺院はモスクになっていて、その横にクリシュナの寺院をまた建てたんや。クリシュナが村人達を助ける為に小指で持ち上げた巨石がまだあって、たくさんの人たちが、その岩の周りをクリシュナの名前を唱えながらクルクルと歩いておられたぜよ。それは巨石というより、小さな丘と言った方が良いぐらい大きな岩山やったぜよ。こんな大きな岩山を子供のクリシュナが小指一本で持ち上げたなんて想像したら、本当に畏敬の念に包まれたな。この巨岩だけを見に行っても行くだけの価値があるで。

ヨシオ:そういや星やんもクリシュナ寺院に行って、そこでは一年中、二十四時間クリシュナバジャンをしてるって言ってたな。その寺院に一歩足を踏み入れた途端、ものすごいバイブレーションで涙がちょちょぎれるぐらい、胸がクリシュナへの思いでいっぱいになって、そこから一歩も動けなくなったんやて。

ポニョ:星やんはすごい信仰心を持ってたもんな。という事で今日も、もう少しゴーピーたちの話をしますね。

心を集中する事の価値を世の人々に示すには、牧女(ゴーピカー)たちがその手本としてあげることができるでしょう。どんな仕事をしたときにも、どこへ行ったときも、牧女たちの心は完全にクリシュナに集中していました。牧女たちは、自分たちの心が色々とさまようことを決して許しませんでした。牧女たちはいつも完全に心を制御していました。

現在、人の心は制御下になく、感覚器官も制御下になく、好き嫌いも制御下になく、空腹も制御下にありません。体はお寺の神様の前にいても、心はお寺の外に脱いできた靴のこと〔靴が盗まれていないか〕を考えていることはよくあります。このように、人はまったく価値のないことに集中を傾けています。
今、人々は瞑想に座りますが、ちょっと座ると蚊が飛んできて邪魔をして、心は蚊のほうを向いてしまいます。あるいは、背中に這い上がってきた蟻が心を攻撃することもあるでしょう。人の行動は状況に応じて変わります。瞑想したいと思ったときに座る部屋がキッチンの隣にあって、キッチンで奥さんが何かの野菜を料理していると、あなたの心は野菜に集中してしまい、野菜はよく揚げられているだろうかと考えます。外見は瞑想しているように見えても、思いは四方八方に向いて、取るに足りないことに惹きつけられます。

このように、牧女たちから学べることはたくさんあります。牧女たちが選んだ様々な道、牧女たちが使った言葉、牧女たちが行った仕事、これらすべてから学ぶべきです。
牧女たちの有していた堪忍寛容を学ぶべきです。
さらに、牧女同士の間に存在した姉妹のような関係を知るべきです。実際、大勢の牧女たちがクリシュナに手を伸ばそうとしていたなら、仲たがいや口論をするはずです。しかし、牧女たちの心には嫉妬のための場所はありませんでした。嫉妬心がなかったことは牧女たちの特徴です。現代では、ほんの小さなことについてさえ、かなりの嫉妬が見られます。~それゆえ、『バガヴァッドギーター』の第8章で、クリシュナはアルジュナに「嫉妬深い人間になってはいけない」と言って戒めました。いつも人の欠点を見つけたいと思っているなら、それは嫉妬心に端を発しています。その病気は徐々に広がって、自分のグル(導師)や神の欠点さえ探そうとするようになるでしょう。嫉妬心は一度芽生えると限度も方向も見失います。嫉妬心はあらゆる方向に制限なく流れ込んでいきます。牧女たちにはまったく嫉妬心がありませんでした。

1人の牧女がクリシュナとの別離に苦しんでいると、他の牧女は皆、その牧女を慰めにいきました。牧女たちは、

「私たちは皆、あなたの不安と別離を共にしていますよ」

と言って慰めました。そうやって慰めている間でさえ、牧女たちは、ゴーヴィンダ〔牛を守る者〕、ダーモーダラ〔腹に縄を巻かれた者〕、マーダヴァ〔マドゥの子孫、迷妄の支配者〕等々、クリシュナの御名を口にしていました。このように、牧女たちはいつもクリシュナ神のことを考えていました。普通の人が、どうやってそれほどの心の平静さ、堪忍寛容、嫉妬心のなさを身につけることなどできるでしょうか? 牧女たちは、前世で多大な善行をしていました。牧女たちの集中力は、実に模範的なものでした。牧女たちはクリシュナ以外のことは決して考えませんでした。恐ろしいものを見たときでさえ、まったくの平静を保っていました。ゴークラ村で牧女たちを非難しない人を見つけるのは困難でした。一般に、男性は女性を過小評価しています。女性の中に存在する神聖さを認識している男性はごくわずかです。

ある日、ゴークラ村に娘が嫁いできました。嫁の名前はスグナーといいました。スグナーを見るや、牧女たちはスグナーに、

「ゴークラ村に嫁いでくるとは、何と幸運なことでしょう。ここにいれば、クリシュナのそばにいて、クリシュナの栄光を歌うことができる機会が得られるのですから」

と言いました。貯水池でも市場でも、スグナーに会うといつも牧女たちはクリシュナのことを話して聞かせました。

ゴークラ村には、ある古くからの習慣がありました。今でもいくつかの村にはそうした習慣は残っています。毎晩、裕福な人の家のベランダに火が灯ると、村人たちが集まってきて、その火を自分の家のランプに移すという習慣です。ナンダは裕福であっただけでなく、自分の家に神がクリシュナの姿をとって生まれたのですから、村人たちはナンダの家でランプに火を灯せば、ナンダの幸運が分け与えられると信じていました。

嫁に来たスグナーも、家からランプを持ち出してナンダの家に火を灯しに行きました。その日の午後から、スグナーはクリシュナの住む場所に行くこと、クリシュナの住む場所を見ることができるその時間が来るのを心待ちにするようになりました。スグナーの心には神聖な想いしかありませんでした。スグナーの中でその想いが揺らぐことはありませんでした。

スグナーは神聖な想いを携えてナンダの家に着きました。スグナーはベランダに行ってランプを灯そうとしました。クリシュナを見ることができるかもしれないという希望を胸に、スグナーは家の中を見ていました。実に、スグナーの想いはすべてクリシュナに向けられていました。そのような想いに浸っていたとき、ランプの炎が大きくなってスグナーの手に触れました。スグナーはまったくそのことに気がつきませんでした。その時、スグナーはランプの炎の中にクリシュナの姿を見ました。クリシュナの姿を見て、スグナーはすっかり我を忘れてしまいました。スグナーは恍惚となって、ぼうっとしていました。その様子を家の中から見ていたクリシュナの母ヤショーダーが、あわててスグナーの手を炎から離し、そんなふうにぼうっとしていてはいけないと言って、スグナーを叱りました。叱られているときでさえ、スグナーの注意はランプとクリシュナの姿に向けられていました。

ヤショーダーがスグナーを引っ張ってランプから離しても、スグナーはランプに向かっていきました。ヤショーダーは状況を理解して、クリシュナがスグナーに神聖な御姿を見せているのだと察しました。ヤショーダーは急いで市場に行くと、何人かの牧女たちにスグナーがクリシュナのダルシャンを受けているのを見に来るようにと言いました。牧女たちは皆、走ってやって来てその場面を見ました。その瞬間に、牧女たちは我を忘れて、恍惚となって歌いました。

「私たちのスグナーに、クリシュナはダルシャンをお与えになり、スグナーはその御姿を見て我を忘れた。スグナーは手を火傷さえした」

スグナーがクリシュナ神のダルシャンを得られたのは、スグナーの集中によるものでした。何であれ何かに集中すると、それが心に刻まれます。牧女たちがそれほどの状況を体験したのは、集中していたからです。牧女たちはよく家の外で寝て自分の子供の面倒を見ることがありましたが、クリシュナ神の笛の音を聞くや、何もかも忘れて笛の音のするほうへ走っていきました。牧女たちは自分の行動に自信を持っていて、自分がすることは何であれ神聖なのだから、他人が何と言おうと気にしない、といった勇気がありました。並外れた自信があったために、牧女たちは神への想いに集中することができたのです。

クリシュナがツボを割ったように、霊性修行と神の恩寵を通じて得られるアートマの光は、この世の物質への執着だけでなく、「私は肉体である」という認識をうち砕きます。アートマへの信仰と、ミルクの攪拌にたとえられる浄化の霊性修行を通じて、帰依者はサット・チット・アーナン ダ(存在・意識・至福)に覚醒します。ゴーピーの家からバターを盗んだクリシュナ神は、 人々の純粋で清らかな心を盗みます。そうしてアートマとの一体性に気づき、覚醒にいたります。
誰もがその過程においてはゴーピーです。解放とアートマの至福を求め、いつかは心を内に向けるようになります。ゴーピーは、すべてに宿る純粋で精妙なアートマととけあいたいという激しい 渇望と、純粋な神への愛で内に向かいました。人の目標は、神の元に集中したゆるがぬ純粋な愛で、 遍在する唯一者との一体を体験し知ることです。


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