サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

愛の為なら何処までも

2015-12-13 00:00:17 | 日記

クシャマ(許す心)を持つ者のみが神聖な愛を持つといわれています。
それは書物から学んで得られるものでもなく、教師や他の人に教えられて獲得するものでもありません。
それは、困難、試練、浮世の荒波にもまれて、自分自身がつちかうものなのです。
嘆きや惨めさを生んだ苦難や困難に直面しなければ、堅忍不抜と寛大さは心に根付く事は出来ません。
苦難や困難に出会ったとき、立腹しうろたえてはなりません。
又、弱さのしるしである気落ちや落胆の餌食になるべきでもありません。
たとえそのような状況であっても、忍耐と寛大な心でもって、怒り、憎悪、復讐心を抑え、心を波立ててはなりません。
あなたは強さの具現であって、弱さの具現ではないのです。
それゆえ、絶望した時には、堅忍不抜の念で心を満たし、許し、忘れなさい。クシャマ(寛大、許すこころ)は人間にとって最高の力です。
この属性を失うならば、人は悪魔となります。1/1/94

ポニョ:お百度参りをしたら、お母さんのお筆書きが止まったって面白よな。夜中にごそごそと起き出して、壁に筆と墨汁で訳の分からん文章を、自分のお母さんが書き始めたら普通の子供やったら泣き叫ぶぜよ。よく我慢されたよな。

ヨシオ:割と根性があるんや。親父が亡くなってからも天神橋筋商店街にあった親父の洋服店を人に貸し、俺たちは二階に住んでいたんやけれど、周りは飲み屋などの飲食店ばかりやったから、時々酔っ払いがトイレと間違えて家に入って来るんや。そんな時に家の玄関で立ちションベンをしている酔っ払いに頭からバケツ一杯の水をかけて、出て行け~!って叫んでいたな。

ポニョ:すごい剣幕やな。でも加代子も女手一人でよく頑張っていたよな。いっぱしの事業家やもんな。機転が効くんやろな。おいらと正反対のキャラやぜよ。

ヨシオ:ネタバレになるけれど、この後保証人になって全ての財産を失うんやけれど、その保証人の家族を恨むことなくずっと仲良く付き合っていたから、とても度量があり、愛が一杯の人やったような。例の山形にあるキリスト教独立学園の紹介をしたやろ。あそこで働いていた人と結婚したのが東洋子の親友の国子なんや。それで、俺の子供がそこに入学したら良い子が出来ると言って勧めてくれたんや。俺たち家族がオーストラリアに移住する時も山形からわざわざ来て見送ってくれたな。

ポニョ:自分が保証人になって倒産させられた家族と付き合うってなかなか普通の人には出来ないぜよ。

ヨシオ:俺が大学生の時に、お袋の親友の国子の長兄の家に行ったことがあるんやけれど、その家の人は俺を見て、私たちはこうしてあなたの顔を真っ直ぐ見れれるような身分じゃないんです。弟が本当にあなたのお祖母様に済まない事をしました。と言って謝られたので恐縮した事があるんや。

ポニョ:ババは許すという事を人はしなければいけない。許すという事が出来る人間が、人として一番の力を持っているんやなんて言っておられたけれど、本当にそういう状況に自分が置かれたら、加代子のように許せるかと言われれば、ちょっと無理やと思うぜよ。今まで順風満帆に行っていた事業を潰されたらやっぱり許せないやろな。という訳でネタバレをしてしまいましたが、加代子のお話を始めましょう。はいどうぞ。

その頃、中国でも戦乱が続いていて興蔵ともとっくに連絡が取れていない状態でした。興蔵の本社ビルも焼け落ち、十三にある興蔵の邸宅もとっくに灰と化していました。加代子には果たして興蔵がまだ生きているかどうかも知る由もなかったのです。
その頃東洋子は、姫路の飾磨中学校に通っていました。同級生の国子とは大の親友になり、家にも度々連れて来ていました。その関係で、国子の兄もよく東洋子たちを遊びに連れて行ってくれていました。国子の兄は加代子より年下でしたが、加代子はその持ち前の美貌の為に三十歳にさしかかっているのにも関わらず、まだ二十代前半のような容姿をしていました。国子の兄は加代子に一目惚れし求婚を迫っていました。両親にも紹介して真剣に加代子との結婚を望んでいました。加代子が大きく事業を展開し成功していたので自分も何か事業を始めようと思い、その事業の為に加代子の保証人になってもらって銀行から金を借りて事業を始めました。
しばらく経って東洋子が学校から何時ものように帰って来ると、家の玄関を始め、東洋子が気に入っていた自転車や全ての家財道具に赤い紙が貼ってありました。加代子は奥の部屋で何も言わずにスーツケースに身の回りの物を詰めていました。そして東洋子に一言大阪に帰ろう。と言いました。国子の兄の事業が破産し加代子も連帯破産してしまったのでした。

加代子は大阪に戻っても何か当てがあるというわけでは有りませんでした。全然連絡をして来なくなった興蔵に相談に乗ってもらうという事しか頭に浮かびませんでした。以前都島に住んでいた頃、興蔵は中国から帰って来る度に家に寄りましたし、興蔵の実家のある鎌倉にも一緒に行った事がありました。それで興蔵が生きているかどうかも分からないけれど、鎌倉に行ってみる事にしました。そこは大きな邸宅で長い生垣から金木犀の香りが漂っていました。
加代子が見慣れた玄関に入り挨拶をすると、普段は使用人達がすぐに出てくるのですが、大きな声をかけても誰も出て来ませんでした。それでも何回か声をかけて待っていると、歩き辛そうに興蔵が長い廊下の向こうからゆっくりと玄関に向かって来ているのが見えました。加代子は応接間に座り久々な再会に喜びましたが、興蔵の一気に老けた顔を見て悲しくなりました。

興蔵の話によると、日本が戦争に負けて全ての会社の資産は中国で没収されてしまったのです。興安丸で舞鶴に逃げて来たのは良いけれど、個人の資産が全て入っているスーツケースを秘書が持ち逃げしてしまって、丸裸になってしまったとの事でした。それで加代子の苦しい状況を聞いても何一つ助ける事は出来ないと言われて、加代子は意気消沈して大阪に戻って行きました。興蔵はその後暫くして養子達に見守られて世を去ったという消息を加代子は風の便りに聞きました。
加代子は以前ケーキを仕入れていたケーキ会社の紹介で喫茶店のウエイトレスとして働く事になりました。しかしその頃加代子の身体は思わしくない症状が出始めていたのです。子宮ガンでした。それで仕事を続ける事が難しくなって家で床に伏せる事が多くなりました。それでも家の家賃や医者に金がかかるので、同じケーキ会社が天満の駅前に出店しているお菓子の店に、東洋子が働く事が出来るようにお菓子屋の社長が取り計らってくれました。
東洋子は未だ十六歳で初めて社会に出て働く事になりとても不安でしたが、店で働く人たちのが親切にしてくれてだんだん仕事が楽しくなっていきました。
そこに毎日のように、足の悪い若者がお菓子を買いにやって来ました。東洋子は最初は大きく身体を揺らして歩いてやって来る見知らぬ青年と言葉を交わすのも嫌だったのですが、毎日顔を合わして行くに連れて、気にならなくなりました。その青年はとても快活でいつも笑顔を絶やさず次から次へと冗談を連発して東洋子を笑かせていました。その青年の話によると、自分はすぐ近くの洋服店を経営してると言っていました。その青年の両親は一昔前に中国から移住して来たとも言っていました。弟や妹ばかり八人もいて自分は長男だから、彼らの面倒を見るために毎日こうしてお菓子を買いに来ているという事でした。でもそれは口実に過ぎず、本当はその若者は東洋子に一目惚れしてしまったので、毎日東洋子と顔を合わしたくて店に通っていたのでした。

東洋子は店が閉まるといつものように環状線の天満駅から電車に乗って家に帰っていましたが、ある時、進駐軍の兵士達に電車の中で囲まれてしまい、長い自慢の髪の毛を触られたり、体を触られたり、声を掛けられたりして怖くて下を見ながら震えていました。そして、その恐怖の体験をそのお菓子を買いに来る若者にも話しました。次の日に東洋子は仕事が終わりいつものように駅で電車に乗り、ふと車両の反対側にその若者も乗っている事に気がつきました。その若者は東洋子が下車した駅で降り、少し距離を置いて見つからないように後を付けて来ているようでしたが、東洋子にはとっくにバレていました。それういう事が何回か続いたので、ある日、東洋子は加代子に相談すると加代子はその青年を家に招待しなさいと言いました。それでその旨を若者に伝えると、若者は自分の洋服店のマネキンに着せてある、飛び切り上等のスーツを着て大きな花束を抱えてやって来ました。

そして加代子と東洋子に、東洋子がまた進駐軍の兵士によって怖い目に合わないように見守りたくて毎日のように一緒に電車に乗っていたと言いました。しかし東洋子に不快な思いをさせた無礼を詫び、自分の東洋子に対する気持ちを告げました。
加代子はその若者を大変気に入りました。とても実直な性格で、正直で隠し事が無い真面目な快活で明るい青年だったからです。それに加代子が中国にいた頃、地元の中国人の度量の深いところや大陸的な、あまり細かい事に囚われ無い生き方が好きでした。加代子はそういう中国人の良さをその若者の中に見出していました。その若者は、その後何度か、仕事が終わるや否や、加代子の家に御見舞いの果物などを携えてやって来ました。加代子とその若者はとてもウマが合うようで、いつも二人は大きな声で笑って会話をしていました。東洋子は加代子がこれだけ楽しそうに笑うのを久々に見ました。
そんな時でも、加代子の症状は一進一退を続けていました。東洋子の親友だった国子も、自分の兄のせいで加代子や東洋子が苦しい生活をしているのを見ていられなくなり、国子の実家がある石川県の小松に引っ越して養生するように勧めました。そこでは家賃も払わなくても良いし、実家の人々が面倒見てくれると言ってくれたのです。それで加代子はその好意に甘えて小松に行く事にしました。
そこで落ち着いて生活を始め、きれいな空気と美味しい食べ物で養生が出来、少し加代子の病状も安定し始めた頃、一人の訪問者がやって来ました。そう。その訪問者は、行き先も告げずに突然いなくなった東洋子たちを、人伝てに聞きながら必死の思いで探し続けて、大阪からわざわざやって来た、あの足の不自由な青年だったのです。