サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

最後の旅は雲の中

2015-03-15 00:00:58 | 日記
やがてヨシオの子供達も大きくなって来て、大学に行くために家を離れる時がやって来た。今住んでいる農場とパースの距離は往復五百kmもあり、よくカンガルーが突然飛び出して来るので、それを避けようとして事故を起こし、死亡事故事故が相次いでいる。子供達が次々とパースの街に巣立って行くのは良いけれど、子供達の行き帰りの車の運転が気になっていた。特にオーストラリアの田舎では制限速度が速くて、普通120km/時で車を飛ばすし、車道にはガードレールや中央分離帯が無く、道路のアスファルトが夏に溶けないように、道路沿いを影で覆うように植林してあるので、少しでも運転に気を抜いて道を逸れると木にぶつかって死ぬ事故が絶えなかった。それで、多くの農家の人達は自家用飛行機でパースへ行き来していた。パースの街の中に僻地の人たちの為に安価で利用出来る飛行場があり、とても便利だった。ヨシオもパイロットのライセンスを取り、飛行機を買うことにした。近所の何軒かの農場の人も家の横に滑走路を作っていた。オーストラリアでは飛行機の値段は安くて、二人乗りの中古機なら小型車と同じくらいの値段で買えた。しかも程度が良い飛行機がたくさん売りに出ていた。しかし、四人乗り以上の飛行機だと値段も高くなって来るので、ヨシオは家族で乗れる四人乗りの飛行機を、自分で作る事にした。
毎日少しずつ、コツコツと家のガレージでグラスファイバーを使って製作し、八ヶ月後ようやく初飛行にこぎつけた。政府の検査官がやって来て、半日ほどかけて検査し、おめでとう。合格です。安全に飛んでオーストラリアの空を楽しんで下さいと言って帰って行った。

側面にはオームのサインを付けた。飛行機のコールサインはインディア ビクトリー インディアにした。巡航速度は220km/時で、燃費は一リッター当たり13kmも飛ぶというエコ飛行機だった。例え、飛行中にエンジントラブルに巻き込まれても、周りは農場ばかりでどこにでも着陸出来るスペースはあるし、滑空率も、12:1とよかった。ガソリンもハイオクが使えるうえに車のように税金もかからず、車検も無く、とても経済的だった。それに自分で作った飛行機は自分で整備が出来るという規則があるので、維持費もとても安くついた。つまり、自分で飛行機を作って乗る限りはオーナーが全て責任を取って下さい。というシステムだった。国や自治体が国民を子供扱いせず、一人ひとりの命は各人の責任で守るというやり方は、煩雑な色々な法令や条例を作らなくてもよく、役人の数を少なく出来るのだ。言ってみたら最大公約数の政策だ。つまり、基本的な事を国が決めたら、あとは、全てあなたの責任ですよ、というわけだ。逆に、最小公倍数の国は、一から十まで国や自治体が責任を取って人々の管理をしている。だから、国や自治体が決めた細々な約束事を守って下さい。という政策だ。

果たして、どちらが良いのか人によって判断は違うだろうけど、ある時、大きなワニのいる川のほとりで日本人旅行者がワニに近づき、腕を食いちぎったニュースが話題になったことがある。その川岸には、別にワニがいるから危険だとか、柵があって人が水辺に近づくのを禁止しているわけではないが、ワニがいる時は、地元の人は誰も川行かないし、ワニに近づかないのだ。でも、腕を噛みちぎられた日本人旅行者は柵もなく、注意書きの立て看板も無かったので、ワニに近づいたと言っていた。そして、看板を立てていなかった政府を相手に訴訟すると言っていた。ワニが危険かどうかも分からないような大人を生み出す教育を、国を挙げてしているのが日本の現状なのだ。敗戦以来、もう二度と、ゼロ戦のような優れた飛行機を作り出す天才が現れないように、金太郎飴のような同じ顔をした子供がたちが、学校からトコロテンのように押し出されて出て来る教育を裏で誰かが日本に押し付けているのだ。そして、そういう教育をとことん推し進めて行くと、国民が法律や条例でがんじがらめになり、誰かの手先となった政府のこっぱ役人共が、国を支配するようになるのだ。挙げ句の果てには知らぬ間に自分の子供達が赤紙を受け取り、他国に戦争に行くことになるのだ。
話は飛んでしまったが、ヨシオも早速パースまで飛んでみた。まず、2000mまで上昇し、そのあとガソリンを節約するために1500回転ぐらいでエンジンを回してグライダーのように滑空すると、ほんの約30分程でパースの飛行場の上空に着いた。管制塔の指示に従って飛んでいると、窓の外にジャンボがすぐ近くに飛んでいた。車で行き来する事と比べると、とても楽だった。嫁や子供たちは離陸して、ものの10分もしないうちに寝息を立てていた。東洋子もパースにいる娘にしょっちゅう会いに行けるし、昼前に家を出て、娘と昼ごはんを一緒に食べ、夕方には帰って来るという芸当が出来た。また、嫁が子供達の誕生日のために作ったケーキも届けることが出来た。最初の一年間だけでも、六十回以上も往復した。
ある日、娘たちも連れて東洋子と四人で、旅行者もあまり訪れないような僻地にある、家から五百キロメートルほど離れたエスペランスという海辺の街に一泊二日の小旅行に出かけた。

その頃、東洋子の認知症は目に見えて進んで来ていた。ヨシオは多分、これが母との最後の旅になるかもしれないと心の中で思った。そのエスペランスという町の郊外には、ピンク色した不思議な湖があるのだ。

ヨシオは、それを空から東洋子に見せてあげたかった。家の近くの飛行場を飛び立ち、しばらくの間、高度三千メートルほどの高さを保って飛んでいたが、低い高度のところに突然、雲がたくさん出来始めたのが見えたので、高度を落として雲の下を飛ぶことにした。ヨシオのパイロットライセンスでは、地上が見えないほどに覆われた雲の上を飛ぶことは出来ないのだ。
ヨシオは、上空から雲の切れ目を見つけておいたので、そこをめがけて飛行機をゆっくり降下させた。しかし、雲の近くにまで達すると周りは雲だらけになっていて、どこが切れ目か分からなくなってしまった。四人であっちだとかこっちだとか言ってどこを見ても同じように見える雲を指差していたが、ふと自分達の飛行機が雲に写っている機影を見ると、三重の丸い虹が飛行機の周りに出来ていた。まるで、飛行機から出ている虹色のオーラのようだった。
その不思議な光景に、少しの間四人で見とれていたが、そうしている間にも雲の量も増えてきたので、新しい雲の切れ目を探す為にもう一度高度を少し上げた。すると少し離れたところに大きな雲の切れ目が見つかり、そこをめがけて降下していった。そこは、ちょうど大きな雲と雲がぶつかっているところで、雲の厚さはゆうに五百メートルはあっただろう。その大きな二つの雲で挟まれた、大きな雲の壁の間の細い隙間を、飛行機が雲の中に入ってしまわないように気を付けながら、ゆっくりと降下して行った。それはまるで白い幽玄境を旅しているようだった。四人ともその壮大な雲の美しさと大きさに圧倒され、息を飲んで見とれていた。その自然の造形物に比べれば、ヨシオたちの飛行機がまるで小さな蚊のように思え、自然に比べると自分たち人間は、なんて小さな存在なんだろうと、その飛行を体験した者たちを謙虚にした。
その荘厳な、この地上のものとは思えない光景を目の辺りにして、機内の誰もがしばらくの間、一言も言葉を発する事が出来なかった。やがて、雲の切れ目から下を覗くと、雲に挟まれた細い長い地上が見えてきた。おもちゃのような車が見え隠れし農家も見えはじめた。下界は少し小雨が降っているようだ。時折、飛行機のフロントスクリーンに水しぶきがかかった。やがて雲の下に出た。風向きは雲の上と全く逆だった。雲の上では、GPSによると地上速度が三百キロメートルで飛んでいたのに、雲の下では向かい風になり、その半分の速度を示していた。管制センターがパースとエスペランスを結ぶ定期便にヨシオたちの飛行機の高度と場所を無線で教えているのが聞き取れた。あちらこちらの雲からタオルを絞ったように、雨が雲下から吹き出していた。円柱状に吹き出している雨があれば、カーテン状に薄く拡がって降っている雨もあった。あと小一時間ほどで目的地に着くはずだったが、ヨシオは出来るだけ雨を避けようと、雨のカーテンのような帯びの間をジグザグ状に飛行をした。プロペラに雨が当たると傷みが早くなるのだ。やがて遠くの方にピンクレイクが見えてきた。その湖の上空は雲が切れていて、そこから明るい太陽の光が差し込んでいた。水の色がピンクなのは、塩湖に特殊な藻が発生して湖面がピンク色に見えるのだ。東洋子や娘たちは、その不思議な自然が織りなす不思議なキャンパスのパステル画を見て、声をあげて喜んでいた。

エスペランスはもうすぐだった。知り合いの飛行場が見えてきた。空の雲は強風に吹き飛ばされたようで、晴れ渡っていた。その飛行場の滑走路はとても細くて短く、横風が強いと少し神経を使わなくてはならないので緊張した。滑走路の狙い通りのところに車輪が着く寸前、カンガルーが二頭滑走路を横切った。機内では悲鳴に近い声が上がった。でも、ヨシオは少しフレアーをかけてカンガルーを避け、無事に着陸することが出来た。フレアーを掛けた分、少し多めに滑走路を使ったがまだ充分な距離が残っていた。機内からは拍手がした。ナイスランディングと東洋子は言った。

ヨシオは、もうすぐすれば何も分からなくなってしまう母親に、オーストラリアの雄大な景色をプレゼント出来た嬉しさと、満足感でいっぱいだった。
娘たちが船に乗って島巡りをしている間、船が嫌いな東洋子を連れてヨシオは知らない街をゆっくりと散策した。オーストラリアのどこにでもあるような、田舎の素朴な店々を覗いて歩いた。人々はとても親切で、どの店に入っても暖かく接客してくれた。東洋子は、つたない英語を使って、孫や嫁にお土産物を買っていた。とても幸せそうだった。時が二人の間をゆっくりと流れて行った。そして、これがヨシオが思っていた通り、母との最後の旅となった。