一年に一度の「敬老の日」に、洗濯三昧!

2005年09月19日 | 介護日記 -
父の足は、今日もふくれたままだった。
全体的に膨張しており、パンパンにはっているような感じだ。
すぐには、元に戻らないような気がする。

今日は、有難いことに“すっきりとした晴天”で、お洗濯日和だった。
今朝の深夜一時ごろ、父がグレープジュースをベッドに撒き散らかしてしまったために、パイルシーツやベッドパットなどなど、大がかりな“シミとり作戦(基礎編)”を開始!
葡萄100%「ポリフェノール」の威力に、びっくり!(普通の洗濯ではおちないのデス)
その後には、排泄の失敗で、敷きシーツと掛布団カバーなど全てを、またまた洗うことになってしまった。
他の衣類などもあったので、ちっこい我が家の洗濯機は、フル回転!
大変な過剰労働だったのに(壊れることもなく)何の文句も言わなかった。[当然だけれど]
おそらく、「敬老の日」だったから、父のために頑張ってくれたのだと思う(笑)。

そして、たった今・・・
父の鼻血のため、敷シーツが赤く汚れてしまった。
これは、枕もとの部分だけだったので、すぐに汚れを落として、バスタオルを敷いて応急処置をした。あわや「今日、三度目のシーツ洗濯」になるところだったが、明日へ・・・。

父の体調が芳しくないと、思うように動作ができなかったり、手足元が心もとなかったりする。
だから、どうしても、日常生活に支障は出てきてしまう。
ちょっとしたことなのだが、その“ちょっとしたこと”が、一人ではできないのだ。
「鼻血」は、「点滴治療へ行こう」というサインである。

私は、洗濯や掃除や介助などが、頻繁に重なると・・・・・「またかぁ~」と思ってしまう。
「さっき、やったばかりなのに」「また、やんなきゃぁ~~」という言葉が、つい“口から出てきそうになってしまう”。それを心の中に押しとどめて、ただ「行動する」ことを優先して、まず“身体を動かしている自分”を感じる。そういうときには、「相手に言っても仕方ないし、自分が努力しても改善されるようなものではない」という現実を、直接的に感じているみたいだ。そして同時に、父の尊厳を意識して、「どうってことないよ」というポーズをとって、意図的に「行動」と「言葉」でそれを伝えようとする。それは、単なる“その場作り”のようなものだが、そういう“ちょっとしたこと”をケアし忘れると、父が“深海”まで落ち込んでしまう可能性があるからだ。
しかし、私自身が“早急にしなければならないこと”を抱えているときなどは、本当に「いらっ」とする場合もある。瞬時に、もう一人の自分が“その思考”をコントロールしていくのだが、“思い通りにやりたい自分”も明らかに存在していて、多重人格的思考人間の“ちょっと手前”状態である(笑)。頭で分かっていることを、いくつもの“私の心”がせめぎあっているのだ。
このような“相反する二つ以上の考えを抱えたとき”、“未熟な自分自身”を感じてしまう。

だから、いつも思うんだ。
「自分の心と向き合うことの大切さ」を・・・。
いくつもある自分の考えを、「うまく共存させていく“術”の必要性」を・・・。

どんなことが起きても、つねに「おだやかに対処できる」ことは理想的だと思うし、
何よりも“ストレスは軽減できるだろう”と・・・。